五十の手遊び 佐藤拓夫のライター徒然草

2022年5月に50歳になるのを機にエッセイをしたためるブログを始めました。10年続いたら祝杯をあげよう。

「読書のマチズモ」は本当か?

齢五十を超えたライターでも、初めて知る言葉はたくさんある。2023年に私が学んだ言葉は「マチズモ」だ。市川沙央の芥川賞受賞作品『ハンチバック』を読んで、私はこのカタカナ言葉に出会った。市川さんがどのような人であるか、また『ハンチバック』が何を描こうとした作品であるかは多くの方がご存知と思うのでここでは省く。市川さんと『ハンチバック』のエッセンスを知りたいなら、次の記事がわかりやすくておすすめだ。

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マチズモとは「マッチョ」に由来し、男性の身体的な優位性を表す言葉だという。おそらくはジェンダーや差別的な問題を論じるなかで使われる言葉だろう。ただ、『ハンチバック』で使われるマチズモには、この言葉がもともと持っている男性優位主義的なニュアンスは含まれていない。同作のなかで市川さんはこう書いている。

私は紙の本を憎んでいた。目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること。5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた。(太字は筆者)

ここで比較対象の関係にあるのは男性と女性ではなく、「健常者」と「障害者」だ。「本に対して自由にアクセスできるか、好きなときに好きな方法で本が読めるか」という問題を考えるとき、健常者のような自由な読書ができない障害者を劣位の存在だと仮定し、優位な存在である健常者が享受する読書環境を評して、市川さんは「読書のマチズモ」と表現した。本を読むという行為において、四肢や視力が不自由な障害者は、かよわく力のない女性のようなもの。他方、本に対して何の不自由もなくアクセスできる健常者は、マッチョでたくましい男性そのもの。その意味で健常者は障害者よりもはるかに優位な立場にあるのだから、「読書のマチズモ」は厳然たる事実なのだ……という解釈なのだろう。

「読書のマチズモ」はさほど深刻ではない?

理解はできる。しかし、市川さんのいうような読書のマチズモは、はたして日本社会にどのくらい蔓延しているのだろうか?

  1. 目が見えること
  2. 本が持てること
  3. ページがめくれること
  4. 読書姿勢が保てること
  5. 書店へ自由に買いに行けること

この5つの項目は、いまの日本で利用できる読書環境を考えたとき、健常者と障害者を区別する物差しとして機能しているのだろうか。

  • 目が見えること…目が見えない人は、活字を読むことはむろんできない。しかし、いまはスマートフォンの音声読み上げアプリがある。またプロのナレーターが文章を吹き込んだデータ(オーディオブック)も販売している。
  • 本が持てること…電子書籍をパソコンで読む限りは、本を手で持つ必要はない。
  • ページがめくれること…これも電子書籍をタブレットで読む限りは、画面の一部を軽くタッチできれば足りる。ただし、画面にタッチすることさえできないほどの障害がある場合は別だ。
  • 読書姿勢が保てること…これはどのような姿勢が苦痛であるかによって答えが変わる。座りながら本を読む姿勢がきつい場合、寝ながら読書姿勢をキープできるスタンドがあるから、そこに本やタブレットを設置することで寝ながら読書することは可能だ。
  • 書店へ自由に買いに行けること…アマゾンをはじめとするショッピングモールがあるから、リアル書店に出かけて本を買う必要はない。もちろん本を手にとって肉眼で品定めすることはできないから、その限りでは健常者との差異を受け入れる必要がある。

このように、市川さんが「読書のマチズモ」の根拠としてあげた5つの健常性が全て欠けていたとしても、読書すること自体は可能なのである*1

読書の楽しみを妨げるいくつかの壁

ただ問題は、「読書すること自体は可能」だとしても、そこに読書の楽しみはあるのかということだろう。たとえば電子書籍には、紙の匂いや手触りは存在しないし、ページをめくると聞こえてくる紙が擦れる音もない。目の前にあるのは言葉のかたまりが電子データで表示された画面のみ。読者はそのデータに視線をやり、画面をタップすることしかできない。

またオーディオブックともなれば、文字を視覚的に受け取ることができない。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」と美声のナレーションで聞いたところで、川端康成が意図した効果は享受できないだろう。あれは物語の冒頭、空白行に続けて「国境の〜」と始まるからこそ雪国への旅路を強く連想させるのだ。文字を目で見ることで完成する小説をいくら音声で聞いても、作家の描いた世界観を十全に味わうことはできない。

その意味では、どれだけ電子書籍やKindleやブックスタンドやオーディオブックが発達しようとも、健常者と障害者が体験する読書の世界にはどこまでも隔たりがある。「読書のマチズモ」がそのような不可視な障壁を指し示すものであるなら、これを解消することは難しいだろう。

マチズモの向こうにある亡き母の面影

市川さんが問題提起したマチズモは、実は古くからある。問題解消に向けた取り組みも細々と行われていた。たとえば目の不自由な人に向けて、図書館の蔵書を朗読してテープに吹き込み、そのテープを貸し出す取り組みがあったことをご存知の方もいるだろう。

私の亡き母も、子供の本の朗読テープをつくるボランティアとして活動していた。いま私がこの記事を書き、また仕事の原稿を執筆するために使っている茶色の頑丈なデスクは、母がテープを吹き込むときに使っていたものだ。キーボードを無心にタイプしていると、ふとしたときに、朗読にふける母の静かで優しい声が蘇ってくる。

(1月2日追記)

元日に能登半島で起きた地震。報道を目にするたびに、なんの忖度も遠慮もない大自然の不条理ぶりに言葉を失う。一日でも早く平穏な日常が戻らんことを。

こういうときに私ができるのは、地元の一宮にお参りして、被災地の復興を祈願すること。この国の一宮は神のネットワークでつながっている。地元の一宮で捧げた祈りは、ネットワークを通じて被災地を神領とする一宮にも届く。

能登国一宮である氣多大社、加賀国一宮である白山比咩神社に対して強く祈りを捧げることをおすすめするが、特に氣多大社の御祭神である「大国主神」を祀る神社なら、祈りの力が現地の御祭神にも届きやすいのでおすすめしたい。

大国主神は、神社によって別の名を冠している場合があり、大己貴神や大物主神などと称されていることもある。

 

ご意見・お問い合わせ

*1:むろん「盲ろう者」は違う。目が見えず耳も聞こえないのだから、電子書籍もオーディオブックも使えない。点字に翻訳された本はもちろんあるが、タイトル数に限りがある。