五十の手遊び 佐藤拓夫のライター徒然草

2022年5月に50歳になるのを機にエッセイをしたためるブログを始めました。10年続いたら祝杯をあげよう。

人間がわからない

タイトルはもちろん水原一平元通訳についてだ。通訳として山の頂にのぼり、幸せな半生を享受していたというのに。一番大切な人の財産をギャンブルの負けの支払いにあてたばかりか、賭けでえた勝ち分は自分の懐(口座)に入れていたそうだ。しかも水原は、大谷選手に「自分の借金の肩代わりをしたことにしてほしい」と頼み込み、いわば共犯関係に仕立て上げようともくろんでいる。稀にみる極悪人の所業といっていいだろう。

殺人のほうがまだ理解できる。動機はいろいろだろうが、なんらかの理由があって人を殺す行為のほうが、水原の行為よりもまだわかる。水原の行為は理解不可能だ。世界一の野球選手のそばで、彼の言葉をサポートしていれば、人生の成功は約束されていたはずなのに。

自腹で違法賭博に興じるだけなら問題はなかっただろう。もちろん相応の罰は受けていただろうが、大谷翔平の人生に影をさすことはなかったし、水原自身の人生だっていくらでもやり直すことができた。通訳としてスポーツ界に残ることも可能だったろう。

水原は、大谷選手に対してまっとうな仕事では返済不可能な金額(約25億円)の負債を背負った。マフィアに対する借り(負け分)も数十億にのぼる。違法ギャンブルの負けは払わなくても構わないが、それは法が支配する世界のこと。法の支配を拒絶する裏社会において、水原は「報復の対象」となる。証人保護プログラムによって守られる可能性はあるが、絶対安全だとはいえない。

つまり水原はもう《自由》を享受できないのだ。自分の意思で人生の羅針盤を操作し、進みたい道に向かって歩くことは許されない。加齢や病気や、「不慮の事故」を仮装したアクシデントで世を去るその日まで、人の目を常に気にしながら逃げるように生きていくほかない。

大谷翔平が光なら、水原一平は影。あらゆるものごとには表と裏があるというが、まさか一番身近な人間が、我が身の影となり闇となって地獄に引き摺り込もうとしているなんて、いったい誰が想像できただろうか。人間とは本当に度し難く、不可解な存在である。

 

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