大谷翔平選手の元通訳、水原一平氏にまつわる記事が氾濫している。どの記事も執筆のトーンは同じで、「もし」や「たぶん」や「おそらく」ばかり。確たる証拠がまだない状態なので仕方ないとはいえ、よくもまあ憶測であることないこと垂れ流せるものだ……と呆れてしまう。
もっとも、ニュースメディアは瞬発力が命なので、いかに読者の関心を集めて記事をクリックさせるか、キオスクの店頭で折り重なるスポーツ紙の中からどうやって選んでもらうかが勝負であることは事実。ゆえに多少不確かな情報であっても、その情報に基づいて憶測を書き散らしてしまうのだ。速報性を優先せざるをえないニュースメディアの性だろう。
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ニュースメディア以上に節操がないと思うのは、SNS上の投稿や、ニュースサイトのコメント欄に寄せられる有象無象の言葉だ。専門家でも記者でもないのに、ごくごく断片的な情報から妄想する人が本当に多い。「通訳の借金を雇い主である大谷翔平が肩代わりするはずない。実は大谷が違法賭博に興じていて、それが当局にバレそうになったので、通訳である水原を身代わりに仕立て上げたのではないか?」といったなんとも想像力の旺盛なコメントも散見する。
当然のことながら、真実は当事者しか知らない。いまアメリカの当局とMLB機構が調査を始めているので、その過程で大谷選手と水原氏もなにがしかの調べを受けるだろう。また今日(3月26日)、大谷選手自らメディアに対して本件に関するアナウンスをするとのこと。私たち外野は、当局と本人が発信する情報をだまって受け止めるほかない。
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この一連の騒動を眺めていると、私たちライターが関わる「コンテンツ」の世界はアテンションエコノミー(注意経済)にとことん侵食されているなあ……とため息をつきたくなる。
どんなに暇人でも、24時間ニュースを眺めているわけではない。有限の時間の中でテレビやネットにアクセスし、自分のアンテナにひっかかるコンテンツを次々に貪ってゆく。じっくりと中身を吟味することはない。
それゆえにニュースの読者は、タイトルや見出しや解説にならぶ根拠薄弱な煽り文句につられてしまい、ろくにファクトチェックすることなく飛びつき鵜呑みにしがちだ。その結果抱いた私的な感想を、鬼の首を取ったかのごとくSNSに垂れ流し、いいねやリプライがつくのを今か今かと待ち受ける。
もっとも、読者のそういった態度は不思議なことではない。特に社会人の場合、仕事・食事・移動・遊び・睡眠をのぞくと可処分時間はほとんど残されていないのだから。ニュースに触れる機会は自動的に「息抜き」の時間に格下げされてしまう。じっくりと読み込んで事実の真偽を見極め、押し寄せる無責任なコメントを無視し、客観的な捉え方に徹することはむずかしい。
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なにが言いたいかというと、「丁寧にコンテンツを作り込もうとして、アテンションエコノミーから距離を置こうとするほど読まれなくなる」という悲しい現実があるのだ。
「私の書く記事はスポーツ紙のこたつ記事とは違う!タイトルや見出しといった外見で読者を釣ろうなんて考えないぞ!」と鼻息荒く執筆するライターは多いだろう。
立派な態度だと思う。しかし現実には、私たちライターが精魂込めて書き上げた文章や記事は、ほとんど読まれないまま忘れ去られる運命にある。この現実を知ってもなお、アテンションエコノミーに魂を売ることなく誠実に仕事をするライターでいられるかといえば、なかなかタフなことだと思う。
この危機感は最近出版される本にも滲み出ている。内容ではなく、タイトルやデザインや帯のコピーで耳目を集め、買ってもらうことに多くのエネルギーを注いでいるではないか。「〜が9割」「〜大全」といったタイトルは典型だ。9割でもないし、すべてを網羅しているわけでもない。しかし、そんなことは編集者にとってはどうでもいいのだろう。とにかく「9割」「大全」という言葉を入れておけば手に取る層がいることは事実なのだから。
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一介のライターにすぎない私でも、大谷翔平と水原一平をめぐる駄文の群れと、その様子を無責任に消費することにいそしむ読者の姿を目にしてしまうと、「ライターって、なんのために仕事をしているのだろう……」と虚無や厭世に囚われそうになる。
そういえば子供のころ、「春なのに、ため息またひとつ〜」と歌う柏原芳恵が好きだったな。