栃木県の県庁所在地は宇都宮市なのだが、もとは県南の街、栃木市に県庁があった。「名前が栃木市なのだから、栃木県の県都とするのは自然ではないか?」と思うだろう。そういう理由もあるにはあるが、本質はそうではない。
栃木市は例幣使街道の宿場町という地の利に加え、巴波川の舟運で大いに栄えた歴史がある。地場で豊富にとれた麻や木材を船で江戸に運ぶ交易により、莫大な財がこの街にもたらされた。つまり県都にふさわしいマーケットがあったからこそ、当時の栃木市に県庁が置かれたのだった。
県庁が宇都宮に移転したのは1884年(明治17年)のこと。それから140年ほど経過した現在、栃木市と宇都宮市では都市としての規模に相当の差が生じた。1982年(昭和57年)、宇都宮駅に新幹線が開通したあとは、その差はさらに拡大。両市の総生産額はおよそ3倍もの開きがある。
しかしながら、経済規模と街の魅力は必ずしも相関しない。先に挙げた数値で言えば、「栃木市の経済規模は宇都宮の3分の1だから、街の魅力も3分の1である」という単純すぎる図式は成り立たないのだ。
栃木市は歴史を大切にしている街である。街中をゆっくり散策すればすぐにわかるだろう。「古い建物や歴史的景観は、きちんとメンテナンスすれば街にとって恒久的財産になる」ということを、栃木市の人々はよくわかっている。古い見世蔵や洋館、例幣使街道沿いに広がる伝建地区は良い例だ。
栃木市とは対照的なスタンスを示しているのが、宇都宮だ。自分が生まれ育ち、今も暮らしている街を貶すのは気がひける。だが私がそう考えるに至ったのは、単なる気まぐれではなく、以下のような個人的体験に由来するのだ。
宇都宮の一宮である二荒山神社の南側に、境内よりはるかに高層のマンション建設計画が構想された。再開発計画の名の下に、少数の地権者とマンション入居者を利するために多額の税金が投じられることも問題視された。
「よりによって、宇都宮の地名の発祥とも言われる一宮からおひさまの光を奪うような巨大マンションを建てるとはなにごとか!」
と憤る声が地元有志から多数あがった。
ところが市長も知事も、
「法律にのっとった開発である。マンションで中心街の居住者が増えれば地元経済も潤う」
と、まるで都市計画を学ぶ大学生がゼミのレポートで書くようなホコリまみれの一般論を盾に反対意見を無視した。
行政の態度に憤りを感じた市民たちは、《明日の宇都宮中心街を考える会》を結成し、マンション建設反対運動を始めた。音頭をとったのは、宇都宮を餃子の街として広めることに多大な貢献をした《宇都宮みんみん》の伊藤信夫さんである。
亡父は伊藤さんの依頼で、二荒山前高層マンションの建設差止を求める行政訴訟の代理人弁護士となり、伊藤さんと共に反対運動の発起人にもなった。
私は当時、父の事務所でパラリーガルをしていたこともあり、反対運動の事務局として騒動の只中に身を置き、運動の行く末をつぶさに観察していた。2006年〜2008年ごろのことである。
反対運動では主に次のような取り組みを行った。
- 新聞まるまる1ページを使って建設反対と代案を示す意見広告を出した。
- なぜ反対するのかを詳しく解説するシンポジウムを開催した。
- 二荒山神社の境内から、マンションと同じ高さのバルーンを掲揚。道ゆく人たちに、マンションがどのくらい高い建物なのかをイメージしてもらった。
- 市内の18万世帯に向けて問題を訴えるチラシを投函し反対署名を募った。
- 集まった反対署名15000筆を議会に提出し、住民投票の実施を求めた(実現しなかったが)。
- 建設差止訴訟は、途中で父が死去したため、事務所のイソ弁が代理人を引き継いだが、地裁で敗訴し終幕した。
反対運動は、なんだかんだで3年ほど続いたが奏功せず、マンションは建ってしまった。今は、一宮の森を巨大なマンションの影が覆っている。
宇都宮はいい街である。むろん私も好きだ。しかし、まちづくりや都市景観に対する意識の高さは、到底、栃木市にはおよばない。
なまじ心の用意がない状態で懐が潤うと、人間は品性を失う。2023年には宇都宮にLRTが走る予定だ。街はさらに発展し賑わいをみせ、経済は潤うだろう。そのとき私たち宇都宮市民の心根は、どれだけの矜持を保っていられるだろうか。
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先日、取材で栃木市をおとずれ、県内初の公立文学館である栃木市立文学館を取材した。記事は美術展ナビに掲載していただいた。
取材を兼ねた散策の途中、「もし、県庁が今も栃木市にあったら……」としばし妄想に耽った。県都・栃木市が、今の宇都宮のごとく大きく発展したら、歴史的景観を大切にする行政と市民の共通意識は、果たして今のように清く保たれていただろうか?経済の発展と街の品格を両立させることはとても難しい。とくに中心市街地の開発ではそうだ。
中心市街地の開発では、既存地権者の参加のもと土地を一括で更地にし、新しくビルを建てる再開発がオーソドックスな手法となる。これは昔からそうだし、これからも変わらないだろう。
再開発は、(二荒山神社前の再開発がそうだったように)長い歳月の堆積をご破算にしてしまう。しかし、必要性は否定できない。地権者を一人一人たずね、「このあたりをまとめて開発したいのであなたの土地を明け渡して欲しい」などと悠長な立ち退き交渉をしていたら、何十年あっても都市開発は進まないからだ。再開発であれば、組合をつくることで一帯の地権者を一つの組織にまとめることができる。再開発は都市開発のムダを減らす手っ取り早い方法なのだ。
それに県都ともなれば、増え続ける人口に対処するため居住用の土地を確保しないといけない。同時に商業用の土地建物を合理的に組み立て直す必要がある。再開発はそのための手法として適役であることは否定できない。
再開発には問題も多いが、メリットも多い。それゆえに混沌とした都市部を整理整頓するためにはとても便利な手法として重宝されるのだ。たとえ歴史的景観と街の品格を犠牲にしても。
もし、栃木市が栃木県の県都だったら……。
拡大する街と人口を受け入れるために、古い蔵や屋敷、洋館の数々を再開発の名目で取り壊し、無機質なコンクリの塊に再生させる愚挙が「絶対に起きない」とは言えないだろう。
そんな妄想が《たられば》であることを感謝したくなるほど、栃木市の街並みは美しく、心を穏やかにしてくれるものだった。