五十の手遊び 佐藤拓夫のライター徒然草

2022年5月に50歳になるのを機にエッセイをしたためるブログを始めました。10年続いたら祝杯をあげよう。

売れない美術作品は「ゴミ」なのか?

「世の中の展覧会の85%はゴミ

アートライターを志す身としては、ドキッとさせられる言葉だ。雑感を書いてみよう。

artnewsjapan.com

多くの場合、展覧会の印象の良し悪しは、展示作品の良し悪しに比例する。したがってジェリー・サルツが吐き捨てた言葉「世の中の展覧会の85%はゴミ」には、「アーティストの諸君!君達が心血を注いでつくった作品のほとんどは、ゴミなんだよ……」という諦めの気持ちが含まれていると思う。では、本当に、美術作品のほとんどは「ゴミ」なのだろうか?

作品の価値を左右するマーケット

ゴミかどうかを決める基準はむろん人それぞれだ。サルツが「これはゴミだ」と感じた作品を「宝石だ」と評価する人も当然いる。美術批評はどこまでも主観的であり、批評の対象とされた作品の本質的な価値を永久に定めるものとは言い難い。とはいえ、作品の価値を決めるにあたってマーケットの存在を無視できないことには注意すべきだろう。批評した人物がサルツのような大物であった場合、酷評された作品や作家や展覧会の「マーケットにおける評判」は、しばしば決定的に下がる。

それは「売れる作品」か?

もちろんマーケットにおける評価には有象無象の“しがらみ”が関わるため、酷評されたからといって作品の価値も低いとは言い切れないだろう。しかしながら、こと現代アートの世界では、マーケットに高く評価されること、すなわち「売れること」という指標を無視することは難しい。「なんて素晴らしい作品なんだ。あなたの作品が世の中に与えるインパクトは絶大です!」などと激賞されたとしても、その作品を買い取ってくれるギャラリーやコレクターや美術館が現れないかぎり、アーティストは食っていけないからだ。

食っていけなければ創作はストップするし、アートの世界はやがて停滞する。するとアーティストは「ライス・ワーク」に注力するようになる。自分がつくりたい作品よりも、金を払う人が欲しがる作品をつくることに血道をあげるようになる。するとたちまち作品の付加価値は下がり、他の作品との差がなくなる。

マーケットに媚びたらアーティストではない

アーティストが本当にしたい仕事=創作が、同時に多くの消費者に対する訴求すなわち普遍性を獲得できればそれは幸せなことだが、そんな例は稀だ。自分の創作に打ち込んでなお十分に生活できるだけの収入が得られる(つまりマーケットから支持されて買い手がつくこと)など夢のまた夢。だから多くのアーティストは、創作活動以外に生活の糧を得るための仕事をしたり、夢敗れて廃業したり、あるいは「趣味」として活動を続けたりする。しかしそうした苦渋の選択は、ある意味「妥協」を拒んだ結果である点で創作に対して誠実だとさえいるかもしれない。

創作よりも食っていくことに傾いてしまった作家は、己の内なる声よりもマーケットの声に囚われてしまう。その途端、作品の個性は奪われ、陳腐になる。より多くのターゲットの耳目に届くかもしれないが、そういった作品がコレクターや美術館の目録に列することはあまりなくて、規模の小さなオークションで投げ売りされるか、そもそも市場に出ることもないままホコリをかぶるか、どちらかだろう。生活のためにマーケットに媚びると、少しは食べていけるようになるかもしれないが、「アーティスト」と呼べるかはかなり怪しくなる。

オリジナリティがないからといって「ゴミ」だとは限らない

では、マーケットに媚びた没個性の作品はすべて「ゴミ」なのだろうか?この問いに対する答えは簡単だ。最終的に金銭を対価として取引される成果物であるかぎり「ゴミ」とは言えない。貨幣としての金銭は、経済的価値の象徴だからだ。苦労して描きあげた絵画の売値が1万円だった場合、プロの報酬とは到底言えないが、たとえ薄利でも金銭的価値が与えられたことは事実であり、そこにはゴミを超えた価値が存在する。

取引の対象とされた時点で「ゴミ」ではなくなる

ゴミにも価値はあるなんて、メルカリを見れば一目瞭然だろ?「なんでこんなゴミが売れるの?」というケースは大量にあるではないか。値段がついているからといってゴミではないとは言い切れないのでは?

そんな声も聞こえてくるが、本当にゴミをゴミと評価していたら、そこに金銭的価値は発生しない。ゴミをゴミ以外のなにかと評価したからこそお金のやりとりがあるわけで、その点でメルカリで取引される一見するとゴミのようなものも、それはゴミではない。

結句、売れないアーティストが日銭を稼ぐために請け負うありきたりなイラストも、対価が発生した時点でゴミではなくなるのであり、これは客観的事実だ*1

サルツの言葉は当然といえば当然

要するにジェリー・サルツが「展覧会の85%はゴミだ」と言い切ったのは、展示作品のほとんどが取引の対象になっていない現状を代弁しているのだ。たとえば小さなギャラリーで開かれる無名の作家の個展を想像すればわかる。作品は残念ながらほとんど売れない。著名なアーティスト=作品を売りに出せば即売するような売れっ子は、全体の割合からすればごくごくわずかだ。また、美術館の展覧会で扱う作品数と、大小さまざまな規模のギャラリーで扱う作品数を比べれば、後者の方が圧倒的多数である。

したがって、日々世界中で開催されている無数の展覧会や個展を総覧した場合、その作品のほとんどは「売れてないし、これからも売れない」のだ。マーケットから一顧だにされない作品の割合が85%とみるなら、サルツの言葉には真実味がある。

 

ご意見・お問い合わせ

*1:もっとも、「ゴミのような作品」があるのは否定しない。「ゴミかどうか?」の評価とは違って、「ゴミのような○○か?」という評価に客観性は存在せず、主観的で個人的な評価にすぎないからだ。