五十の手遊び 佐藤拓夫のライター徒然草

2022年5月に50歳になるのを機にエッセイをしたためるブログを始めました。10年続いたら祝杯をあげよう。

検索から解放される「書棚」

相変わらず本はよく買うし、借りている。最近は仕事のペースを遅くしたこともあり、読書の時間がかなり増えた。そんな私が「在庫の検索ができない小さな本屋が好きだ」と気づいたのはここ数年のこと。少し意外だった。なぜなら、私はアマゾンと図書館のヘビーユーザーであり、検索機能を毎日使い倒しているからだ。「在庫検索できない」とは、正確に言うと「客が自分で検索できない」という意味だ。大半の書店は在庫管理のパソコンがあるので、そこに目的の書名や作家名を入力すれば当然検索できる。しかし、それにはスタッフに対して「こういう本を探しているので在庫があるか調べていただけますか?」という頼みごとを介在させる必要がある。そのワンクッションがどうにもめんどくさい……。なので、特定の本を早く手に入れたい場合は、アマゾンか図書館を使ってさっさと目的の本を見つけることにしている。

しかし、検索して目的の本を探す過程は、厳密には「本を探している」とは言い難い。目的の書はすでに決まっていて、あとは在庫があるかどうかを確認する作業だからだ。「こういう本がどこかにあるかも?」とさまよい歩く楽しみはそこにはない。偶然の出会いを求めて本屋をたずね、ふらふらと奥深くにわけいり、店主のあつらえた書棚の美醜をふむふむと鑑賞する楽しみ方こそ「本探しの醍醐味」であり、本好きにとってほかに代え難い時間であると思う。そんなゆったりとした探索の旅が体験できるお気に入りの本屋がたった一つあるだけで、人生はけっこう豊かになるのではないだろうか。

ここ何年かのあいだに、私が暮らす宇都宮では、個人の店主が構える小さな書店が増えていて、次の3軒はいずれも得難い存在感を放っている。

私が最近気に入っているのが最後に紹介したイグノブックプラスだ。この店をたずねると、本が大好きな蔵書家の書斎をたずねて、その個性的な書棚をまじまじと眺めているような気分になる。「店」という印象が希薄で、ただただ店主の趣味を反映した色とりどりの本がたくさんある空間。そんな純度の高い気配が、私のアンテナにばっちりヒットした。イグノの書棚を眺めていると、ニヤニヤを抑えるのにとても苦労する。最近イグノで買った本は、宮大工の聞き書きを集めた『木のいのち木のこころ』と、伝説的編集者の自伝『Front Row アナ・ウィンター』。どちらも、棚の一隅にふらりと目線を落とした刹那、偶然見つけたタイトルだ。検索しなかったからこそ出会えたこれらの本は、あの日、あの時間、あのタイミングでなければ一生手に取ることはなかったかもしれない。思いがけないめぐりあいこそが、検索機能を持たない小さな書店の醍醐味である。

 

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なにかを暗示しているのだろうか?

やけにリアルな夢だった。セリフもはっきり聞こえた。夢はあまりみないのだが、なかなか印象的だったので、文章を肉付けし、ひとつの物語に仕立ててブログに書き留めておこうと思う。物語の背景、登場人物の名称や特徴などの細かい描写はもちろん後付だ。

太郎おじいちゃんは大の偏食家で、野菜ラブ。 ゴールデンレトリバーの愛犬コタローは肉命。 一人と一匹で暮らし始めてもうすぐ10年になる。 梅子おばあちゃんが生きていたころは、「もっと肉を食べなきゃ元気でないわよ!」とよく小言を言われていたおじいちゃん。 おばあちゃんもコタローと同じく肉が大好きだった。 毎夜の食卓に肉料理が並ばない日なんて一日たりともないほど。 ステーキ、焼肉、生姜焼き。肉野菜炒めだって、いつも決まって、野菜が1で肉が3。 

おじいちゃんがベジタリアンになったのは40歳のとき。 地元のNPO団体が主催した「屠畜場見学ツアー」に興味本位で参加したのがきっかけだった。 牛や豚が流れ作業のように屠殺され、解体されていく姿を見たおじいちゃんは、帰宅後、ビーフジャーキーを奥歯でかみながらテレビを見て笑っていたおばあちゃんに向かって、「俺、もう肉食べないから」とだけ告げた。 

その日の夕飯から食卓の景色が変わった。 おばあちゃんの席の前には茶色が、おじいちゃんの前には緑や黄や赤い色が増えた。 おばあちゃんは、おじいちゃんが本当に肉をまったく受け付けなくなったことがなんだか腹立たしくて、肉の美味しさをみせつけるかのように無理してたくさんの肉をほおばるようになった。 

二十年が過ぎ去り、二人は還暦をむかえた。 若い頃から「肉こそ元気の源!」を信条としていたおばあちゃんも、いつしか肉を食べることがそんなに好きではなくなっていた。 肉をあまり食べられなくなったおばあちゃんは、かたくて飲み込めなかった赤身や焦げた脂身の残りを、最近飼いはじめた愛犬コタローにおすそ分けするようになった。 いつもドッグフードしか食べさせてもらえなかったコタローは狂ったように喜んだ。 

「この世にこんなうまいご飯があるなんて!」 

そんな表情を見せながら、いつも全力で肉にかぶりつき、二口か三口だけ噛んだらすぐに飲み込む。 その様子を嬉しそうに眺めるおばあちゃん。 おじいちゃんはますます肉が嫌いになった。 

それから夏と冬を二度ずつ越した5月。 おばあちゃんは病院のベッドで静かに息をひきとった。 窓の向こうには抜けるような青空が広がっていた。四十九日の法要を終え、蝉の鳴き声がうるさくなり始めたある夏の晩。 コタローに変化が訪れた。 肉を食べなくなったのである。

***

おばあちゃんが亡くなったあと、おじいちゃんはコタローの肉を買うため近所の肉屋に出かけるようになった。 

「いつも大好きな肉をご馳走してくれたおばあちゃんがいなくなってコタローもさみしかろう。せめて新鮮な肉を毎晩あげよう」 

そう考えたおじいちゃんは、噛む力が弱くなったコタローのために、やわらかい国産牛の薄切り肉を毎日100グラムだけ買い求めた。 軽く湯通しした肉を味付けもせぬままコタローの皿に放り込むと、コタローは、いましがたフードをたっぷり食べたことも忘れ、尻尾をぶんぶんと振り回しながら肉を二度三度噛み、すぐに飲み込んだ。 おじいちゃんは、鶏肉を加工したフードと、自分が買ってくる牛肉しか食べないコタローの健康状態を考えるようになった。 

「コタローのやつ、肉ばかり食べているのに、なんでこんなに元気なんだ?茹でたブロッコリーとか柔らかいサラダ菜とか全然見向きもしないぞ……」 

おじいちゃんの食卓の景色は、おばあちゃんが死んだあとも変わらなかった。 緑や黄や赤、そしてたまにつくる玉ねぎのマリネの白。 肉を見せつけるように食べるおばあちゃんがいなくなったことで、おじいちゃんはこれまで以上にベジタリアン道を疾走した。 

コタローが、おじいちゃんのヒザに前足を乗せてドレッシングのかかったサラダ菜のにおいを嗅ぐようになったのは、動物病院の定期健診で末期の脳腫瘍がみつかってからまもなくのことだった。

夢はここで途切れた。実際の夢はもっとぼんやりとした流れで展開している。記憶に残っている映像をエピソードも交えて構成し直し、細部を加筆して書き上げた。なお、家族にベジタリアンはいるが、私は大の肉好きである。

 

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自分だけのチカラで生きていくことの難しさ〜日本の「自立」の現状

 

偶然目にしたこの動画に目が釘付けになった。

youtu.be

引きこもっている人を外の世界に連れ出す仕事は現代日本ならではかもしれない。日本が引きこもり大国であることは、「Hikikomori」という言葉が海外の精神医学の講義で専門用語として使われていることからもわかる。「自分たちの力ではどうにも手に負えない」と観念した家族が、自立支援団体を名乗る組織に依頼する。すると施設スタッフが訪ねてきて、当事者を説得し、施設に連れて行く。引きこもっている本人からすれば《天災》だろう。突然降って湧いた訪問者に抵抗することがほとんどだ。しかし、この他力本願の機会を逃すと、自力での再生はかなり難しくなるのが現実だろう。

自立支援というと聞こえがいいが、中には粗悪なやり方もあって、ほとんど有無を言わせず力ずくで連れ出す事例もある。施設に連れていったあとも常時監視して外出を許さないなど、人権侵害が横行している施設も残念ながらある。その点、このYouTube動画のドキュメンタリーでは、なんとも粘り強く、誠実な態度で当事者を連れ出す様子がうかがえる。動画は24分でまとめられているが、実際は数時間におよぶ説得があったのだろう。絶対に施設にはいかないという素振りで施設スタッフと執拗に論戦していた当事者が、最後は笑顔を見せながら玄関の外へと歩みをすすめた。「一体、どんな説得をしたのだろう?」と、このスタッフに取材したくなるではないか。

親離れできない子供は至るところにいるが、親離れできない大人もいる。大人の引きこもりがどれくらい存在しているのか正確な実態は誰にもわからないが、国の調査(平成30年度)によると、満40歳から満64歳までの引きこもりの出現率は1.45%で、推計数は61.3万人に達するそうだ。

以上は、大人の引きこもりの事例だ。引きこもりや不登校の当事者が子供であるなら、類似する事例が多いこともあって、優れた対策をもって子供たちを引き受け、自力更生へと導く施設は少なくない。この動画の施設のように有料のところが大半だが、中には寄付や補助金、イベント収入などで運営している無料の施設もある。私が以前取材した自立援助ホーム《星の家》も、さまざまな問題を抱えた子供たちを無料で引き受けていた。自立援助ホームとは、15歳から20歳までの子供を対象とする支援施設だ。

www.jiritsu.org

児童養護施設や里親などで暮らしていた子供たちは、18歳になると養護の枠から外れる。とはいえ、18歳になった途端に自立できるわけではない。そこで自立援助ホームが子供たちを引き取る役目を負うことになる。ほかにも、中学卒業後に親とのトラブルが原因で家出をしたケースなど、レールから外れてしまった子供たちを引き取り、家族として共に生活しながら育て直しをするのも自立援助ホームの大切な仕事だ。

drive.google.com

「星の家」という施設名は、創設者である星俊彦さんの名字が由来だ。栃木県では自立援助ホームの先駆けであり、四半世紀に渡って寄る辺のない子供たちの「我が家」としてひっそりと活動していた。その星俊彦さんが、今年の9月に69歳でお亡くなりになった。私が取材したのは2012年の夏のこと。子供たちと星さん夫妻が共同生活を送る星の家を訪ね、4時間ほどお話をうかがった。星さん以外のスタッフはあまりいなくて、子供たちとのコミュニケーションの大半を星さん自ら引き受けている状態だった。そのためか、どことなく疲れた様子が表情にあらわれていて、「果たしてこの先、星の家がどこまで子供たちを守っていけるだろうか……」と心配になったことをおぼえている。

社会的養護が必要な子供の数は(微減し続けているものの)全国で4万人を超えている。栃木県では、里親・乳児院・児童養護施設が預かってる子供は611人いる(令和4年3月時点)。先述の通り、里親や養護施設は18歳までが対象であり、それを超えると社会に出ることを強要される。いきなり養護の外の世界に放り出されて「今日から君は一人で生きていくんだぞ!頑張れ!!」と背中をバシバシ叩かれても、自活のスキルも経験もない子供たちは途方に暮れるほかない。

日本では2022年4月から成年年齢が18歳に引き下げられた。成年の定義はいろいろある。身体的・精神的成熟だとか、単独で契約できることとか。しかし、成年の最も端的な属性は「一人で生きていけること」なのではないか?そうであれば、里親や施設を卒業したばかりの子供たちを、ひとくくりに成年として扱って自活を強いるのはあまりにも性急ではないだろうか。

www.gov-online.go.jp

「星の家」のホーム長 星俊彦さんは、文字通り空の上で光り輝く星となった。これからもずっと子供たちを見守ってくれることだろう。しかし、星の家で暮らしている子供たちは、これから実社会で生きていかねばならない。いずれはホームを出て、働いて金を稼ぎ、人生を全うしなければならない。壁にぶつかることも当然多いだろう。そんなときに待ち受けているのが、《大人の引きこもり》というエアポケットだ。恵まれない境遇で育った子供たちが、大人になってから固く心を閉ざしてしまったら……。回復は極めて難しくなるのではないか。そんな想像が杞憂に終わることを願いながら、くだんのYouTube動画を何度もリプレイしていた。

 

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ライターとは無縁の世界で起きた《仕事のジレンマ》について考えてみる

すごい記事である。今、仕事で壁にぶつかっているせいかもしれないが、表皮をつきやぶって心臓のあたりまで届く威力があった。

www.ktv.jp

「大量殺人犯の命を助けること」が自分の仕事だと知ったとき、どのような態度を取るべきなのだろう。自分の仕事が、誰かの幸不幸に決定的に影響し、しかもその判断が自分の生き様に深くかかわるというとき、私達はうろたえずに意思決定できるだろうか。

死刑囚の命を救うという壮大な矛盾

被告人青葉真司は死刑になるだろう(100%ではないが)。青葉が病院に救急搬送され、その身元が明かされたとき、治療を受け持つことになった上田敬博医師の中に逡巡はなかったのだろうか。上田医師はこう語っている。

「犠牲になられた方とご家族、被害に遭われた方とそのご家族のためには、『死に逃げ』させてはいけない。その思いが強くて、絶対容疑者を死なせちゃいけない。それだけです。そこはずっとぶれなかった」

とはいえ、この言葉がメディア向けのドライな告白である可能性はゼロではないだろう。本当に1ミリも逡巡はなかったのか、誰にもわからない。もしかすると本人さえも。ブラックジャックなら、金さえもらえばどんな悪人でも救うだろうけれど。

上田医師のまるで鋼のようなプロ意識

自分が上田医師だったらと、かりそめの妄想にふけってみた。「いずれ必ず死刑になる人間を、死刑にならなくても治療しなければ遠からず死ぬであろう人間を、全力で救命する」というこれ以上ない矛盾。果たして私の心は正常を保てるだろうか。一人の大量殺人犯のために、生き残る確率も、(おそらくは)価値もゼロに等しい瀕死の人間のために、貴重な医療のリソースを際限なく湯水のように使うのである。これは現実世界で起きうる究極の選択ではないか。もし上田医師が青葉の救命を拒否し、他の病院に移送するよう求めたとしても誰が責められるだろうか。職業倫理上は青葉を救命しないといけないのだろう。しかし職業倫理を超える人道上の倫理が、青葉の救命を躊躇させることだってあるだろう。いや、ほとんどの人間がそうに違いない。その躊躇は、決して「弱さの現れ」ではない。

名医の仕事が生み出した悲劇

上田医師は青葉を即時無条件で受け入れた。そして、ほとんど死にかけている青葉を、世界屈指と言われる熱傷治療の技術で生き返らせ、裁判に出廷できる状態まで回復させた。奇跡以外のなにものでもない。「死なせてなるものか」というほとばしるほどの情熱と、それを可能にする抜きん出た技術と経験。そして言葉には出さなくても、日々繰り返したであろう、自らの行いを問いただす無数の葛藤。究極のジレンマを抱えつつも、軽やかに仕事をこなし、青葉の救命だけを目標に最善を尽くし、見事実現させた。これが名医というものなのだろう。

青葉を生かした結果、法廷で被告人質問が実現したのだが、どんな事態が生じたかは多くの人が報道でご存知だろうし、その内容に衝撃を受けた人も多いだろう。遺族が自ら問いかけた言葉に青葉は、「逆にお聞きしますが、僕がパクられた時に、京都アニメーションは何か感じたんでしょうか?」と語ったのだ。ありもしない事象にすがった病的な被害妄想を、遺族に対して猛スピードで放り投げた。理解不能な言葉の刃で切りつけられた遺族が、どれだけの深手を負ったかは想像に難くない。

人間にとって、仕事とはなんだろう。

自分の仕事が誰かの役に立つということ。反対に誰かの迷惑になるということ。青葉を救った上田医師の行動は、事件の解明にとって絶対に欠かせないものであり、その意味で無限大の価値を持つものと言える。しかし、法廷で繰り返される自己中心的で無責任な言葉のかたまりに、いったいなんの意味があるのだろうか。青葉の心理を解明して事件の背景が明らかになったところで、その過程に先例としての価値はあるのだろうか。ただただ遺族の心に、二度とは拭えない傷を刻むだけではないのか。そんな感情論が、法の世界にとって無力であることは承知している。しかし、どうしても考えてしまうのだ。

このような顛末は、むろん私達ライターには縁のない世界だろう(自分の文章によって誰かを傷つける可能性はゼロではないが)。医師だけに許される「人の命を救う」という仕事だからこそ起きた問題だ。白と黒、光と闇、表と裏。自分の信念に裏打ちされた行動が、人を幸せにし不幸にもする。「人間万事塞翁が馬」は世の常であるとはいえ、青葉真司と上田医師をめぐる物語は、あまりにも異常で深刻で、重すぎるのである。

 

(2024年1月25日追記)

京都地裁は本日、被告人青葉真司に対して死刑判決を言い渡した。この後、弁護人か青葉が控訴すれば裁判は続くことになる。青葉は公判で「自分の罪は死刑で償うべきだ」と述べているから、自らすすんで控訴することはちょっと考えにくい。一方弁護側は一貫して無罪または減刑を主張しているので、「量刑不当」を理由に弁護人が控訴することは十分考えられる。

ただし弁護人による控訴は、被告人がはっきりと「控訴しない」と意思表示した場合には認められない(刑事訴訟法356条)。したがって青葉が弁護人に対して「控訴するな」と釘を刺した場合は死刑判決が確定する。仮に弁護人が青葉の明確な同意を得ずに控訴したとしても、青葉の贖罪の気持ちに変化がなく、死刑を受け入れる覚悟ができているならば、青葉自身が控訴を取り下げるだろう。

 

(2024年1月26日追記)

青葉の弁護人が控訴した。これは予想されたことだ。控訴期間は判決翌日から14日間と決まっている。この期間が過ぎてしまうと「やっぱり控訴しておけばよかった」と後悔しても後の祭りだ。そのため刑事弁護人は、被告人が控訴しない意思を明らかに示している場合をのぞいて、とりあえず即時控訴することが慣例となっている。あとは青葉がどう考えるか。自らの命をもって償う強い気持ちがあるのなら控訴を取り下げるはずだ。

もし控訴を取り下げなかったとしたら……。死刑という厳然たる現実を突きつけられて、命が惜しくなったということもありうるかもしれない。しかしその判断は、遺族にさらなる深いストレスと怒りをもたらすことになる。たとえ最高裁まで審理がすすんだとしても、青葉の死刑はゆるがないだろう。そうであれば、土壇場になって怖気付くみっともない姿を世間に晒すよりは、素直に判決を受け入れたほうが青葉自身の魂の救いにもなるのではないだろうか。

 

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《カケルスクール詐欺事件》をめぐる若干の考察(Part 2)

昨年の12月に、ライタースクール《カケルスクール》をめぐる詐欺事件に関するエントリを書いた。

hatesatetakuo.hatenablog.com

前回の記事から10ヶ月、事件から1年が経過したのを機に、あらためてカケルスクール事件を振り返ってみたい。

***

カケルスクールの代表者であり、スクール運営元の株式会社諸花(以下「諸花」)の代表取締役である山原和也(以下「山原」)は、廃業直後の10月1日に行った生徒へのZoom説明会で、「顧問弁護士に依頼してただちに破産手続きに入る。資産は生徒に分配する」と話していた。果たして本当に破産したのだろうか?

裁判所による破産手続開始決定が出るまでの時間は事件の規模次第だ。カケルスクールの場合、債務の種類が決まっていること、債権者である生徒やスタッフの情報はスクール側がすべて把握しているはずであることをふまえると、申立書類の準備期間を最大限考慮しても3ヶ月あれば足りる。したがって、山原が言うように2022年10月1日からただちに準備を始めたのだとすれば、2023年1月中には破産手続開始決定が出ていないとおかしい。開始決定から2週間もあれば官報に公告が掲載されるので、2022年10月から2023年2月までの官報情報をチェックすれば、「ただちに破産手続きに入る」という山原の説明の真偽がわかる。そこで私は、官報の有償検索サービスを利用して、山原個人または諸花が本当に破産したのかどうかを調べてみた。

search.npb.go.jp

検索キーワードは、「山原和也」「株式会社諸花」に加え、奈良県にある諸花の所在地と、念のため諸花が創業当時に事務所を登録した大阪の所在地も含めた。検索期間は、2022年10月1日から現在まで(2023年10月13日)とした。

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結論としては「否」であった。山原個人の名前も、諸花の社名も官報に掲載されていない

 

「山原和也」で検索してもヒットしない

 

「株式会社諸花」でもやはりヒットしない。奈良県および大阪府の諸花社所在地で検索しても同様だ

ちなみに、指定キーワードが検索にヒットすると、次の画像のように表示される。

これで明らかになった。「ただちに破産手続きに入る」という山原の言葉は、詐欺の意図を隠し、被害者である生徒からの責任追及を交わし、逃亡時間を稼ぐためについた《嘘》だったのだ。山原は、生徒から受講料を詐取するためにカケルスクールを運営し、狙い通りに多額の受講料をだまし取り、逃亡したのである。

山原による説明会のあと、被害者である生徒有志は、なんとかスクールおよび山原の動向をモニタリングしようと情報交換につとめていた。なかには、諸花が事務所を構える奈良県内の税務署や県警に問い合わせた人もいた。それによると、税務署からは「詐欺事件の匂いがある。県警に相談を」との助言をもらったので、わざわざ奈良県警に相談したという。県警は「関連資料を集めて持ってきてほしい」と指示したが、相談した方は奈良県から離れた場所に住んでいたため断念したらしい。その後も山原やスクールの動向をチェックする動きがSNSを中心に続いていたが、決定的な打開策は見いだせず、年を越すころになるとあきらめムードが支配的になった。

スクールが集めた生徒数は、一説によると300名に達していた。生徒は約28万円の受講料のほか、カリキュラム完了後にフォローアップ代として月3万3千円の月謝を支払ったという。カリキュラムを9月に終えた生徒の中には、フォローアップ代を支払ったものの、仕事をもらうこともできないまま廃業を知らされた人も少なからずいた。スクールがスタートしたのは2022年の3月で廃業したのは9月だから、活動していたのはたった半年間である。スタッフへ支払った半年分の給料はたかが知れている(そもそもスタッフへの給料の支払いも滞っていた)。また外注していた営業の規模も小さかったから、スクールが集めた金に比べれば経費は大した額ではない。したがって山原は、今回のスクール詐欺を通じて数千万円のキャッシュを手にしたと推定できる。

山原は、廃業を明らかにしてから公式LINEで生徒とやりとりをしていたが、1ヶ月ほど経過した後、なんの予告もなくLINEを抜けて連絡を断った(ツイッターの個人アカウントも削除)*1。当然生徒はパニックに陥ったが、そもそも生徒と山原との共通連絡手段がLINEしかなかったため万事休すである。以上の顛末を詳しくまとめたページがあるので、時系列で経緯を知りたい向きはこちらを。山原のご尊顔も拝むことができる。

togetter.com

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最後に、なぜこのような詐欺事件が起きてしまったのか、背景を考えてみたい。ここまで被害が拡大してしまった理由のうち、最も重要なのは仕事を紹介してもらうこと》に対する見通しの甘さだ。

受講生に対して仕事を斡旋する仕組みは珍しくない。ただ、カケルスクールの生徒は、本当に《仕事》を紹介してもらいたかったのか?そうではなく単なる(一時的な)《収入源》=案件を欲していたのではないか?仕事は恒常的であるのに対して、案件は暫定的である。仕事の契約は依頼主であるクライアントと直接交渉する必要があるのに対して、案件の紹介はスクールを介在した間接的な交渉で済む。したがって仕事を紹介してもらう場合と、一時的な収入源としての案件を紹介してもらう場合は、似ているようで全く違う。クライアントと直接交渉する必要のない案件は、生徒にとってもプレッシャーが少ない。警戒心が緩むので、受講するか迷っていた人にとっては、さぞや魅力的な《撒き餌》になったことだろう。

「ライターの仕事って、納品してから報酬が支払われるまでに時間が結構あくし、最初は単価も安いから、手っ取り早く稼げる案件を紹介してもらえるなら有り難いなあ」

そんなふうに考えている駆け出しのライターが、「毎月30本の高単価案件が保証されますよ。受講料もすぐに回収できます!」などと言われたら……たとえ30万円という高額の受講料でもうっかり契約してしまう人がいてもおかしくはない。反対に、ライターとして本気で自立しようと考えていたなら、本当に紹介してもらえるか確証のない(存在するかどうかも不明な)高単価案件をあてにしたりはしないだろう。

スクールで学ぶことと仕事を見つけることは別の問題であり、仕事探しは自分の責任で地道に行うべきだ。

そういう確たる自覚があれば、やすやすと詐欺の被害にあうことはなかったかもしれない。

仕事を探す場合、相当慎重な判断が求められる。たとえば自分がアルバイトを探す場合を考えてみるといい。仕事内容は自分でも可能か。職場の環境が劣悪でないか。時給などの雇用条件は仕事に見合っているか。たくさんの情報を集め、判断し、意思決定しなければいけない。カケルスクールの被害者に「仕事を探す際の緊張感」は十分にあったのか。「手っ取り早く稼げるのはとてもありがたい!」と軽く考えていなかったか。スクールでスキルを学ぶことはできるが、仕事探しや仕事そのものの厳しさを学ぶことはできない。高単価案件を紹介してもらえることがスクール入学の決め手になってしまったのだとしたら、それは《自分の仕事を決める》ということに対する見通しが甘かったと言わざるを得ないだろう。

被害者である生徒に非があると言いたいのではない。事件の原因と責任はむろん山原にある。あらゆる詐欺事件には、人間の心理をついた巧みな罠が潜んでいると言いたいのだ。どんな仕事も、努力が実るまでには相応の時間と苦労が必要だ。ライターの場合、安い単価からスタートし、少しずつ実績を重ねていくうちに単価がじりじりと上昇し、依頼が増えていく。もちろんその途中には、失注や契約の中途解除などもたくさん起きる。山あり谷ありの道のりを乗り越えた者だけが、豊かなキャリアを手に入れることができる。その過程をすっ飛ばして、「カケルスクールを卒業できれば、すぐに高単価の案件が安定して受注できる!」という根拠のない目論見だけを信じてしまった結果、300名もの被害者が、山原のしかけたトラップにまんまとハマってしまったのだ。

山原は今もどこかでのうのうと生きているだろう。ネットに名前(実名)が出てしまうような仕事は金輪際できまい。どこかの小さな会社に職を見つけて、これからもひっそり暮らしていくのだろう。受講生からだまし取った金でギャンブルや投資でもしながら。しかし、天網恢々疎にして漏らさずだ。今は逃げおおせることができても、いずれ必ず天罰をくらう羽目になる。

 

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*1:昨年までは閲覧できた諸花のHPも現在は削除されている