五十の手遊び 佐藤拓夫のライター徒然草

2022年5月に50歳になるのを機にエッセイをしたためるブログを始めました。10年続いたら祝杯をあげよう。

ライターとは無縁の世界で起きた《仕事のジレンマ》について考えてみる

すごい記事である。今、仕事で壁にぶつかっているせいかもしれないが、表皮をつきやぶって心臓のあたりまで届く威力があった。

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「大量殺人犯の命を助けること」が自分の仕事だと知ったとき、どのような態度を取るべきなのだろう。自分の仕事が、誰かの幸不幸に決定的に影響し、しかもその判断が自分の生き様に深くかかわるというとき、私達はうろたえずに意思決定できるだろうか。

死刑囚の命を救うという壮大な矛盾

被告人青葉真司は死刑になるだろう(100%ではないが)。青葉が病院に救急搬送され、その身元が明かされたとき、治療を受け持つことになった上田敬博医師の中に逡巡はなかったのだろうか。上田医師はこう語っている。

「犠牲になられた方とご家族、被害に遭われた方とそのご家族のためには、『死に逃げ』させてはいけない。その思いが強くて、絶対容疑者を死なせちゃいけない。それだけです。そこはずっとぶれなかった」

とはいえ、この言葉がメディア向けのドライな告白である可能性はゼロではないだろう。本当に1ミリも逡巡はなかったのか、誰にもわからない。もしかすると本人さえも。ブラックジャックなら、金さえもらえばどんな悪人でも救うだろうけれど。

上田医師のまるで鋼のようなプロ意識

自分が上田医師だったらと、かりそめの妄想にふけってみた。「いずれ必ず死刑になる人間を、死刑にならなくても治療しなければ遠からず死ぬであろう人間を、全力で救命する」というこれ以上ない矛盾。果たして私の心は正常を保てるだろうか。一人の大量殺人犯のために、生き残る確率も、(おそらくは)価値もゼロに等しい瀕死の人間のために、貴重な医療のリソースを際限なく湯水のように使うのである。これは現実世界で起きうる究極の選択ではないか。もし上田医師が青葉の救命を拒否し、他の病院に移送するよう求めたとしても誰が責められるだろうか。職業倫理上は青葉を救命しないといけないのだろう。しかし職業倫理を超える人道上の倫理が、青葉の救命を躊躇させることだってあるだろう。いや、ほとんどの人間がそうに違いない。その躊躇は、決して「弱さの現れ」ではない。

名医の仕事が生み出した悲劇

上田医師は青葉を即時無条件で受け入れた。そして、ほとんど死にかけている青葉を、世界屈指と言われる熱傷治療の技術で生き返らせ、裁判に出廷できる状態まで回復させた。奇跡以外のなにものでもない。「死なせてなるものか」というほとばしるほどの情熱と、それを可能にする抜きん出た技術と経験。そして言葉には出さなくても、日々繰り返したであろう、自らの行いを問いただす無数の葛藤。究極のジレンマを抱えつつも、軽やかに仕事をこなし、青葉の救命だけを目標に最善を尽くし、見事実現させた。これが名医というものなのだろう。

青葉を生かした結果、法廷で被告人質問が実現したのだが、どんな事態が生じたかは多くの人が報道でご存知だろうし、その内容に衝撃を受けた人も多いだろう。遺族が自ら問いかけた言葉に青葉は、「逆にお聞きしますが、僕がパクられた時に、京都アニメーションは何か感じたんでしょうか?」と語ったのだ。ありもしない事象にすがった病的な被害妄想を、遺族に対して猛スピードで放り投げた。理解不能な言葉の刃で切りつけられた遺族が、どれだけの深手を負ったかは想像に難くない。

人間にとって、仕事とはなんだろう。

自分の仕事が誰かの役に立つということ。反対に誰かの迷惑になるということ。青葉を救った上田医師の行動は、事件の解明にとって絶対に欠かせないものであり、その意味で無限大の価値を持つものと言える。しかし、法廷で繰り返される自己中心的で無責任な言葉のかたまりに、いったいなんの意味があるのだろうか。青葉の心理を解明して事件の背景が明らかになったところで、その過程に先例としての価値はあるのだろうか。ただただ遺族の心に、二度とは拭えない傷を刻むだけではないのか。そんな感情論が、法の世界にとって無力であることは承知している。しかし、どうしても考えてしまうのだ。

このような顛末は、むろん私達ライターには縁のない世界だろう(自分の文章によって誰かを傷つける可能性はゼロではないが)。医師だけに許される「人の命を救う」という仕事だからこそ起きた問題だ。白と黒、光と闇、表と裏。自分の信念に裏打ちされた行動が、人を幸せにし不幸にもする。「人間万事塞翁が馬」は世の常であるとはいえ、青葉真司と上田医師をめぐる物語は、あまりにも異常で深刻で、重すぎるのである。

 

(2024年1月25日追記)

京都地裁は本日、被告人青葉真司に対して死刑判決を言い渡した。この後、弁護人か青葉が控訴すれば裁判は続くことになる。青葉は公判で「自分の罪は死刑で償うべきだ」と述べているから、自らすすんで控訴することはちょっと考えにくい。一方弁護側は一貫して無罪または減刑を主張しているので、「量刑不当」を理由に弁護人が控訴することは十分考えられる。

ただし弁護人による控訴は、被告人がはっきりと「控訴しない」と意思表示した場合には認められない(刑事訴訟法356条)。したがって青葉が弁護人に対して「控訴するな」と釘を刺した場合は死刑判決が確定する。仮に弁護人が青葉の明確な同意を得ずに控訴したとしても、青葉の贖罪の気持ちに変化がなく、死刑を受け入れる覚悟ができているならば、青葉自身が控訴を取り下げるだろう。

 

(2024年1月26日追記)

青葉の弁護人が控訴した。これは予想されたことだ。控訴期間は判決翌日から14日間と決まっている。この期間が過ぎてしまうと「やっぱり控訴しておけばよかった」と後悔しても後の祭りだ。そのため刑事弁護人は、被告人が控訴しない意思を明らかに示している場合をのぞいて、とりあえず即時控訴することが慣例となっている。あとは青葉がどう考えるか。自らの命をもって償う強い気持ちがあるのなら控訴を取り下げるはずだ。

もし控訴を取り下げなかったとしたら……。死刑という厳然たる現実を突きつけられて、命が惜しくなったということもありうるかもしれない。しかしその判断は、遺族にさらなる深いストレスと怒りをもたらすことになる。たとえ最高裁まで審理がすすんだとしても、青葉の死刑はゆるがないだろう。そうであれば、土壇場になって怖気付くみっともない姿を世間に晒すよりは、素直に判決を受け入れたほうが青葉自身の魂の救いにもなるのではないだろうか。

 

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