五十の手遊び 佐藤拓夫のライター徒然草

2022年5月に50歳になるのを機にエッセイをしたためるブログを始めました。10年続いたら祝杯をあげよう。

エモく書かずにエモくする

こういう記事にときどき出会えることが海外のコラムの面白さだと思う。執筆者は『ザ・ニューヨーカー』のスタッフライターであるルイーザ・トーマス。

www.newyorker.com

内容を知りたい向きは、翻訳アプリを使って文章の雰囲気だけでも感じてみてほしい。GoogleChromeの付属アプリだと碌な訳文にならないが、情報の全体像は理解できるだろう。翻訳の精度を上げたいなら《DeepL翻訳》がおすすめだ。DeepLは無料翻訳アプリの中では現在最高の性能を持つ。もちろんDeepLでも十分な訳文ではないので*1、細かな描写まで把握したいなら英語の力をあげて原語で読むほかないだろう。

このコラムの特徴は、「感情を示さずにエモさを醸し出すスキル」と「エピソードトーク」にある。感情を直接表現せずにじんわりウェットな情景を想起させるテクニックは、ザ・ニューヨーカーのような著名なメディアで定評を得ている書き手なら容易に駆使できる武器だろう。巧みなエピソードトークも、この書き手に限らず読ませる力のあるコラムニストなら日常的に使うスキルだ。たとえばボブ・グリーンの愛読者なら、エピソードトークがうまくハマったときどれほどの破壊力を持つかよく知っていると思う。

文章に彩りを添える手法はたくさんあるのだが、その最たるものが《控えめなエモさ》であると思う。エモさとはウェットとほぼ同義だ。ウェットの反対はドライ。これは文章の四大元素のひとつ、《湿度》の話だ。

hatesatetakuo.hatenablog.com

スポーツコラムの場合、勝負事を生業とする世界の話であるから、ヒロイックで大げさでエモーショナルに書くことはいくらでもできる。だからといって安易に感情を盛り込みすぎるとじめじめした弱さがにじみ出てしまい、たちまち陳腐な文章に堕してしまう。スポーツコラムの難しさはそこにある。冒頭のコラムも同じで、もし書き手の都合だけでエモさ全開のウェットな文章を展開すると、大谷翔平選手という稀代のアスリートに対して「もしかして、不幸な怪我にくじけそうな弱い人間なのかも?」というマイナスの心象を読者に与えかねない。

だからボブ・グリーンしかり沢木耕太郎しかり、スポーツのノンフィクションで名を成した達人は例外なく感情の使い分けがうまい。全体の情報量を10とすると、ウェットはせいぜい1〜0.5で、残りの9〜9.5はドライな文章が占める。しかし、その微細なウェットの使い方が絶妙でこれ以上ないほど完璧であるために、二つとない名文や名コラムが誕生するのだ。

もちろん以上はコラムの話。取材(インタビュー)記事や評論、小説などではウェットの比率が変わる。特に関係者にインタビューした情報から書き手が味付けをする《聞き書き》の場合、ウェットな筆致を好む人が多いように思う。スポーツだけでなく、芸能やビジネス、政治などがテーマでもそうだ。他人が書いた記事を読むことが自分で記事を書くことよりも好きな私は、暇さえあれば誰かが書いた記事を読んでいる。翻訳アプリをフル活用して、世界中のビッグメディアのコラムに目を通すのが欠かせない日常だ。それで気づいたのだが、日本人の書いた記事は、テーマが純粋なビジネスや趣味の世界でもないかぎりは、どこかで「エモく書いてやろう」という意志や思惑や作為を感じてしまう例がよくある。これはいったいなぜなのだろう。

集団主義社会で生きていると、他人の目や評価が気になるもの。だからいつの間にか、誰かの気持ちを揺さぶるような情感重視のエモい文章がたくさん書かれるようになり、支持されるのではないか?

そのようなちっぽけな日本人論から敷衍するつもりは毛頭ないが、日本語の多様な表現形態から考えると、なぜエモい文章が量産されがちなのかという疑問に対するひとつの答えが出るような気がする。事実を客観的に描写しきろうとする意志よりも、主観的・個人的であるというハンデは承知のうえで、あえてウェットな情感豊かな描写に挑んでみたいという書き手の意欲がエモい文章の背後に隠れているのではないか。日本語ネイティブである書き手がエモさに走りがちなのは、日本語という特異な言語体系が持つ感情表現のバリエーションに起因するのではないか。バカバカしいほど単純な視点だが、ありうることだと思う。

日本人の「エモい文章が好き♡」は、プロアマ問わず書き手が一番集まっているメディア《note》をひもとくとよくわかるだろう。そこらじゅうにエモさ満載の文章が氾濫しているではないか。エモい文章のほとんどは「わざとそうしている」のだ。エモく書こうとして書いているから、エモい文章が大好きな読み手にどんどん刺さる。しかも確証バイアスが働くから、読み手はタイトルから「この記事はエモそうだ」と予想できる記事をどんどんクリックしていく。すると《おすすめ記事》に同類のエントリが無限に表示される。

そういった行動が繰り返されると、エモい文章が好きな人が集中する人気記事、いわゆるバズ記事が生まれる。「編集部のおすすめ」としてピックアップされたりした日には、爆発的にバズってしまう。たくさんの人に自分の文章を読んでもらえることの快感を知ってしまった書き手は、調子づいてますますエモさに拍車がかかった文章を書きまくることになる。noteにはそんな、エモい文章が書きたくて読みたくて仕方がない人たちが群がっているのだ。

note.com

……というふうに書くと、まるでエモい文章を糾弾しているように読めてしまうが、実は私もエモい文章が大好きなのだ。本心では、このブログに毎日でもエモい文章を書きたいと考えているのだから始末に負えない。一応ライターとしてご飯を食べている身だからして、心の奥底で「誰かを感動させるエモい文章が書きたいんだよう!」と力なく叫んでいても、そんな素振りはおくびにも出さない(出せない)。

雨が降ったら「雨が降った」と書くだけで、幾千の情景を読み手の心に浮き立たせる。エモく書かずともエモさを醸し出せるのが真の名人である。自分がそんな書き手になれるとは微塵も考えていないが、しかし、天に召されるまでに一本くらいはそんな名人芸を生み出してみたい……と、珈琲豆をミルでゴリゴリしながら妄想に励んでいることはここだけの話だ。

 

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*1:10年前の翻訳アプリのゴミのような性能に比べると、DeepLの訳文の正確さは見事というほかないのだが

寂しいニュースが届く夏が嫌いだ

2つ立て続けに残念なニュースが届いた。

「大リーグ・エンゼルスの大谷翔平選手が、右肘の靭帯損傷。投手としての今期出場が終了」との一報。先発ピッチャーとしてここまで10勝をあげている大谷選手。打撃は好調で、日本人初のホームラン王も十分狙えるところまで来ていた。投手としてここでリタイアするとしても、すでに今季のア・リーグMVPは確実と言われている。だが、どうせなら最後まで投手として勝ち星を重ねてほしかった。

大谷選手は来年30歳になるが、もともとの体力、精神力ともに超人的だ。肘の手術をすれば確実に再起できるだろう。今期のオフでエンゼルス以外のチームに移籍するだろうが、どのような境遇に立とうが変わらず応援していきたい。

(8月27日追記)

大谷選手は投手として登板する機会は失ったものの、あいかわらず打者としては好調を維持している。ニューヨーク・メッツとの連戦では、豪快な2塁打と3塁打を打ち、盗塁も決めて連勝に貢献した。本当に肘を痛めているのかと驚くほかない。敵地での試合にもかかわらず、現地のメッツファンから大きな声援を受けていたのが印象的だった。生き生きと打席に立つ大谷選手の姿をみていると、「君は頑張りすぎだ。ピッチャーの仕事はしばらく休みたまえ」という、天が与えた休息だったのではないかという気がしてきた。

大谷翔平選手が、もし二刀流を断念することになれば、もう二度と、彼と同じレベルで二刀流をこなす選手は生まれないかもしれない。少なくとも私が生きているあいだは。それに、もしかすると、移籍先のチームの意向によっては、いままでのような二刀流は許されないかもしれない。それもまた天命というものだろう。ひとりのファンとしては、大谷選手の活躍をリアルタイムで応援できたことをただただ感謝するほかない。

私には子供がいないから、「昔はね、二刀流で大活躍する大谷翔平という偉大な野球選手がいたんだ。それはもうすごい選手でね……」などと語り継ぐ機会はないだろう。それでもいい。自分の目と耳にしっかりと刻まれた大谷翔平の勇姿は、私の心の中で生き続けるのだから。

そしてもう一つのニュース。こちらのほうが私にはショックで……。往年の名プロレスラー、テリー・ファンクが79歳で世を去った。アメリカ流プロレスのアイコンだったテリー・ファンクは、若い頃からずば抜けて派手でカッコよいレスラーであり、私も彼の大ファンだった。世代的に生で試合をみることはかなわなかったが、テレビ画面上で躍動するテリーの姿は、今の日本のプロレスに見られるような、精緻で計算ずくで様式美に支配されたプロレスとは対極の、粗野で荒削りでテクニックは二の次で、ど根性と執念と肉弾戦だけで観客を興奮させた、まさに《テキサス魂》を体現する唯一無二のレスラーだった。

兄のドリーとともにタッグ「ザ・ファンクス」を組んで日米プロレス界のレジェンドであり続けたテリーだったが、近年は認知症を患い、施設で介護生活を送っていたという。流血戦の常連であり、とことん頑丈な体だったテリーもやはり老いには勝てないのか……。プロレスファンにとって最も寂しさを感じるのは、自分の《推し》が枯れ木のように衰弱し、朽ち果てていくさまを目の当たりにしたときだろう。

テリーの名勝負は無数にあるが、長年全日のマットで激戦を繰り広げたハンセン、ブロディ組との試合映像を。まだ元気なころの馬場さんや「鉄人」ルー・テーズの姿も拝める貴重なものだ。試合終了のゴングがなっても暴れまくり、止めに入る全日の若手選手たちをラリアットでなぎ倒していくハンセンおなじみの狼藉ぶりも懐かしい。

youtube

ハンセンはテリーより少し若い世代だが、テキサスにゆかりのあるレスラー同士、堅い友情で結ばれていた。きっと寂しがるだろうな……。大好きだった馬場さんが、ジャンボが、三沢が逝った。猪木さんもいない。そしてテリー。もしハンセンが死んだら、私のプロレスに対する数々の思い出も情熱も、手の届かない場所に飛んでいってしまうのではないかと、少しだけ怖くなる。歳を重ねると、夏に出くわす訃報がだんだんきつくなる。日差しが強ければ強いほど、名残惜しさも増してゆくからなのか。あんなに好きだった夏が、少しずつ嫌いになる。

 

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お盆になると思い出す父の手紙

大学を卒業してしばらく経ったころ、お盆で帰省した私に亡父が手紙をくれたことがあった。夕飯を食べ終えて食器を片付けようと立ち上がったとき、「ちょっとこれ、読んでみてよ」と唐突に封筒を手渡してきた。父はそれきり何も語らず、便箋を食卓の上に広げて黙読する私を前に、ただ黙って気恥ずかしそうにビールをあおるばかり。手紙には、父の仕事(法律事務所)を継ぐかどうか悩んでいた息子に向けた想いが短く綴られていた。たぶん少しばかり丁寧に書いたのだろう。いつも見かけるミミズがのたうち回ったかのような悪筆ではなかった。

「お前の気持ちが一番だから、どうするかは好きにすればいい。ただ、事務所を継がないなら、お父さんの代でたたもうと思う」

そんな内容だった。寛容と脅迫が入り混じった言葉に困惑した私は、「考えておく」とだけ言い残して東京に戻った。

それから何年か過ぎ、相変わらずダラダラと司法試験の受験を続けていた私だったが、合格を果たす前に父が死んでしまったので後を継ぐ気持ちも失せてしまった。私が弁護士になりたいと考えたのは、心から尊敬する父と一緒に法廷に立つことがほとんど唯一の私の夢だったからだ。父がいない法廷なんてただの箱。厭世気分にとらわれた私は、モチベーションが完全に枯渇してしまい、司法試験の受験生活にきっぱり別れを告げた。

父が死んでまもなく、パラリーガルとして勤めていた父の事務所をやめ、専業ライターとして仕事を始めた。事務所の現状はというと、父の最後のお弟子さんが代表を継いでそこそこ繁盛している。なにかの間違いで私が継いでいたら早晩潰していただろうから、これで良かったのだろう。人生は成るようにしか成らない。見えざる手に導かれるうちに、いつの間にか歳を重ね、老いさらばえて朽ち果てる。流れに身を任せた緩い生き方もそう悪くはないじゃないかと、今となっては思うのだ。

 

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馬頭広重美術館の取材で思い知らされた《学芸員》という存在の影響力

栃木県那珂川町の馬頭広重美術館で開催している「旅する大津絵展」を取材し、学芸員から詳しくお話をうかがった。記事は美術展ナビで読める。

artexhibition.jp

驚いたのは、本館には学芸員が3名しかいないということ。年間8回ほどの企画展を開催することを考えると、人的リソースは本当にぎりぎりだろう。地方の小さな町立美術館であることをふまえてもかなり厳しい条件である。言うまでもないことだが、美術館や博物館のコンテンツは、学芸員のセンスや資質の影響を受ける。たとえ潤沢な予算があっても、学芸員の質が低ければ、企画はありきたりになるので人々の関心は希薄になる。また企画がぱっとしない展覧会は広報も鈍重になるので、ますます認知されず、来館者数が伸びなくなるのだ。人気を博している最近の美術館には、大抵《尖った学芸員》の存在がある。その見地からいえば、馬頭広重美術館の学芸員の見識は目をみはるものがあると思う。

「旅する大津絵展」でフィーチャーした大津絵は、浮世絵と肩を並べるほどの民画として江戸時代に大流行した芸術だ。もっとも、浮世絵のような複雑な製作工程ではなく、土産物として即席で描かれたため、保存状態がよいものは非常に少ない。富岡鉄斎や柳宗悦、梅原龍三郎、海外ではピカソも惚れこんでコレクションしたという大津絵であるが、鑑賞に耐えうる作品が少ないために、世間の認知度は(浮世絵と比べると)絶望的に低いのだ。知っている人がほとんどいない作品を企画のメインにすえて展覧会を開催するわけだから、担当学芸員には相当の勇気がいるだろう。一定の数字を取れなければ学芸員としての経歴に傷がつきかねないのだから。

矜持と心意気を持つ学芸員に会いたい

私が今回の取材で学芸員から感じたのは、美術や博物の専門家としての《矜持》と、大津絵という知られざる芸術を世間の美術ファンに知らしめたいという《心意気》だった。矜持と心意気さえあれば面白い展覧会になる……というわけではないことはもちろんだ。しかし私は、矜持も心意気も持たない学芸員が企画した展覧会を見たいとは思わない。

馬頭広重美術館は公立だから、学芸員は給料と身分が保障されている。そのことに甘んじて、美術や博物に携わる者としての飽くなき探究をやめてしまえば、凡庸で退屈で、出がらしのお茶のような味気ないコンテンツになる。「旅する大津絵展」の背後に見え隠れするのは、浮世絵専門美術館としての着眼だけではないだろう。「文化的価値があるテーマは、たとえマイナーであっても臆せず積極的にとりあげる。この地域に暮らす人々に、美術の素晴らしさをもっと知ってもらいたいから」という純度の高い熱いメッセージが込められているのだ。

 

才能の塊のような人間が若くして死ぬこと。その意味に思いを馳せる夏がまた来る

足利市立美術館の「顕神の夢 霊性の表現者 超越的なもののおとずれ」は、実に愉快な展覧会だった。8月17日まで開催しているので、近くに出かける人は見逃してはいけない。会場には不思議な空気が流れていた。神仏画や霊性を描いた作品を中心に展示しているが、決してそれだけではない。迷妄する作家の精神とも言うべき、「いったいこれは何を捉えているのだろう?」とひとかたならぬ疑念や畏怖が湧いてくる作品が会場のあちこちに横溢しているのだ。なかでも異彩を放っていたのが、村山槐多が1915年に描いた《尿する裸僧》である。

村山槐多《尿する裸僧》(1915年。長野県立美術館)

「尿」と書いて「いばり」または「ゆばり」と読む。元々は「ゆばり」だったようだが、現代では「いばり」と読む例が多いようだ。村山ファンならこの絵について知らぬ者はいないから、作品の詳しい背景は書かない。村山ファンでない人は、ぜひ会場で作品を直接見て、何事かを感じ取って欲しい。托鉢する僧が素っ裸で豪快に放尿する姿は、村山の自画像であると解釈されている。

足利の会場に立った私は、この作品を執拗にまじまじと、行きつ戻りつ30分は眺めていたと思う。ちょっと偏執的な態度だったかもしれない。得体のしれない野獣的なパワー。たしかに「宗教的な」と言いたくなるある種の霊性を宿しているように感じた。パソコンの画面を通した《閲覧》では、この絵の向こう側に《神》を感得することは難しいだろう。この一点を見るためだけにわざわざ足利へおもむく価値がある。

ただし《尿する裸僧》は前期のみの展示。7月24日以降は足利を離れ、巡回先の他館に移動する(展示作品は各館ごとに異なる場合があるので要問い合わせ)。「顕神の夢」展は、足利市立美術館での展示終了後、以下の予定で巡回する。

  • 久留米市美術館(福岡県):(会期)2023年8月26日~10月15日
  • 町立久万美術館(愛媛県):(会期)2023年10月21日~12月24日
  • 碧南市藤井達吉現代美術館(愛知県):(会期)2024年1月5日~2月25日

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念仏を唱えながら放尿する僧侶の絵を描いた4年後、村山は22歳で世を去る。芸術家の中には早世する人が珍しくない。最近の展覧会から例を引くと、全国から大量の美術ファンを集め話題となったエゴン・シーレや佐伯祐三がそうだ。シーレは28歳、佐伯は30歳。昨年、栃木県立美術館で回顧展が開かれた山中信夫も34歳で逝ったのだった。

輝ける未来を嘱望されるアーティストやクリエイターが、天からのギフトを十全に発揮するためには相応の時間を要する。たとえどれほど才気煥発の持ち主であっても、20年や30年そこそこの人生では、才能を萌芽させるだけで精一杯だろう*1

そういえば今回の展覧会では、あの中園孔二の作品も6点展示されている(展示替えなし)。高校2年のときに画家を志した中園は、芸大で油絵を学んだあと2年ほど東京で活動したのち、瀬戸内海の美しい海に心を奪われ2014年に香川県高松に移住。だが翌年7月に海で遭難し、25年の短い生涯を終えた。中園が生前に残した作品数は500点を超える。プロとして活動したのはたった3年ほどだったことを思うと狂気じみた創作意欲というほかない。もし日本人の平均寿命まで生きのびたら、ピカソに並ぶとは言わないが、ルノワールくらいの作品数(およそ5000点超)には容易に達していただろうし、おそらくは令和の現代日本美術における最重要の作家にのぼり詰めていただろう。

若くして死ぬことの意味を考えさせるきっかけとなるのは、芸術家の死だけではない。市井に生きる普通の人々のなかにも、才能に恵まれながら早死する人はいる。私の近くにも一人、そんな青年がいた。

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関東はじきに梅雨明けし、お盆を迎える。黄泉の国で旅を続ける御霊が、それぞれの故郷に帰省する季節だ。迎える側は、故人の面影をしのび、失われた才覚をあらためて惜しむ。私たちは今年の夏もまた、麦茶を飲みながら思い出話に花を咲かせることだろう。

「もし生きていたら、どんな仕事を成し遂げていただろうか?」

才能に恵まれた若者が忽然と消えた時、周りの人間たちが繰り返し語るのは個人的なメモリーだけではないだろう。明日へと続くストーリーを思い描くのも私たちの役目である。人類の歴史とは、死者がなし得たことの歴史だけではなく、残された人間が何を託され、実践したかの歴史でもある。キャンバスの空白に絵の具を描き足し、書きかけの原稿用紙に言葉を加えて、あったはずの、あるべきだったはずの物語を紡ぐのだ。一人ひとり、それぞれが果たすべき仕事に思いを馳せる夏にしたいと思う。

 

*1:「じゃあゴッホは?10年しか活動していないのに、他の追随を許さない画家だけど?」と突っ込まれるかもしれないが、あれは美術史上に偶然産み落とされたエイリアンであり、普通の人間と同列に考えてはいけない。それにゴッホが亡くなったのは37歳のときで、画家を志したときには20歳代後半に達していた。画業の時間こそ短いものの、決して夭折とは言えないだろう。