五十の手遊び 佐藤拓夫のライター徒然草

2022年5月に50歳になるのを機にエッセイをしたためるブログを始めました。10年続いたら祝杯をあげよう。

友が待つ佐野へ

私には生涯の宝と決めている1冊の本がある。その本は店では買えないし、図書館で借りることもできない。

本の著者は大竹智浩くんという青年である。彼は私の仕事の相方であり、友だった。

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大竹くんは胸ときめかせて入社したはずの星野リゾートを、思うところあって3年で退職。その直後、1ヶ月かけてイギリスとスイスを遊覧する一人旅を敢行する。その旅のすべてを『イギリス・スイス旅行記』と名付けた濃紺の日記帳に書き残していた。

異国の地を一人さまようことの不安。グレートブリテンの大地を鉄道で疾走する興奮。壮大な歴史を宿す古く美しい街並み。「まずい」という下馬評とは異なり美味だったイギリス料理。スイス・ツェルマットでマッターホルンを横目に滑った生涯忘れられないスキー。端正な文章のそこかしこには、二十代の若者らしい素直な眼差しが綴られていた。

意気揚々とひとり旅を終えてから2年後の2月。大竹くんは誰にも看取られることなくひっそりと息を引き取る。享年28。就寝中の突然死だった。

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大竹くんが亡くなってすぐのこと。私は彼が勤めていた会社から依頼を受けて、編集者の仕事を引き継いだ。もともと私は大竹君が編集者をしていた雑誌に原稿を寄せていて、そのご縁もあって声がかかったのだと思う。

取材をもとに記事をつくったり、作家の書いた原稿を本にしたりする仕事は、厳しくも愉快で充実した日々だった。当時の経験が糧となり礎となって、私はいまライターとして口に糊することができている。つまり私は、彼が鬼籍に入ったことと引き換えに《一生の仕事》にありついたのである。

大竹くんは言語の感覚に秀でていた。彼が選ぶ言葉、ものする文章には独特の落ち着きと品格があった。それはくだんの日記の文章にも表れており、製本作業の途中で私は幾度も手を止め、思慮深く、それでいて青年の息吹に満ちたみずみずしい言葉に見とれた。

また彼は、私よりひと回りも年下なのに、物事の本質を見抜く曇りなき眼を持っており、静かな風格を漂わせていた。生きていたらきっと優秀な編集者として辣腕を振るっていただろう。

人はしかるべきタイミングで死んでいくものだと信じていた。しかし大竹くんの死によって、人生はそこまで都合よく仕組まれていないことを思い知ったのだった。いつの世も変わらぬ不思議であるが、死んではいけない人ほど早くに逝ってしまうのは一体全体どうしてだろう。

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三回忌を終えた年のお盆。私はご両親から『イギリス・スイス旅行記』の存在を明かされ、製本化の依頼を受けた。

「智浩がせっかく書き残した文章を、このまま私たちの手元に置いておくのはなんだかもったいない気がして」

日記を預かった私は、製本化にひとかたならぬ情熱を傾けた。仕事を終えて帰宅するとすぐに部屋にこもり、手書きの文章をパソコンで清書する日々。何度も寝かせては書き直す作業を繰り返し、イラストレーターでデータ化したのち、製本会社に託した。2か月後、本になった日記を大竹君のご両親に届けた。おびただしい開放感と達成感。そして、いいようのない寂しさ。

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大竹君の郷里は栃木県佐野市にある。彼が亡くなってからというもの、命日とお盆、年に二度の佐野詣でが習慣になった。佐野にでかけると私は、墓参りをしてからご実家へ足を運ぶ。手土産と線香を遺影に捧げたら、ご両親としばしのあいだ、とりとめのない世間話や大竹君の思い出話に興じるのだ。そんなひと時をことのほか大切にしてきたのだが、最近はコロナ禍の影響で足が遠のいてしまった。

令和5年2月。久しぶりに佐野へ出向いた。命日当日は雪が強く降ったので断念し、翌日に予定を変えて墓参りをした。その足で大竹家にアポなしで訪問すると、3年ぶりに間近で言葉を交わしたご両親の顔は少しやつれているようにも見えた。

「今年のお盆はお昼を食べる前にきてくださいね。新しくできたおいしい佐野ラーメンの店があるの」

「わかりました。おなかを空かせてうかがいます」

名残を惜しみながら玄関をでると、私はいつものように道の駅で土産用の佐野ラーメンと芋フライを大量に買い求めた。そして自家焙煎珈琲の名店『珈琲音』のハウスブレンドと手製のケーキで気持ちを落ち着かせたのち、ゆっくりと宇都宮への帰途についた。