五十の手遊び 佐藤拓夫のライター徒然草

2022年5月に50歳になるのを機にエッセイをしたためるブログを始めました。10年続いたら祝杯をあげよう。

「鑑真和上と下野薬師寺」展の取材で得た2つの気づき

過日、栃木県立博物館で開かれている特別展『鑑真和上と下野薬師寺~天下三戒壇でつながる信仰の場~』を取材した。記事はいつものように美術展ナビに載せていただいた。

artexhibition.jp

この取材とレビュー記事の執筆の過程で、あらためて大切だなと思った気づきが2つあった。とても重要なことなので、忘れないように書き留めておきたい。

ノンバーバルな対象物の取材で湧き出た言葉を大切にする

美術作品の大半は絵画・写真・彫像・陶芸など、《言葉》以外の手法でつくられている。そのようなノンバーバルな表現に触れたときでも、自分の内側から湧き上がる感想は結句「言葉」だ。言葉以外の要素で生み出されたものを観察する結果、頭の中に言葉が湧き上がる時間、瞬間こそが、ライター(とくに取材記事を書くライター)としての成熟に少なからず影響を与える。この気づきは非常に重要だ。

ライターは記事や本を書く際、大量の文献を参照する。文献に記された言葉には、すでに他人が与えた情報や意味が託されていて、私たちライターはそこから必要なものだけを抜き取り、自分の執筆に利用する。他人が言葉に託した情報等を借りているだけなので、創造的な活動とはあまりいえない。

展覧会で美術品や歴史資料を眺めていると、予期せぬタイミングで頭の中に言葉が浮かんでくる。その多くは「すごい」「美しい」といった形容詞だ。数百年、千年という気の遠くなる時空を超えて目の前に現れた絵画や仏像、出土品には、それらを手がけた人間の情念がこもっている。私というちっぽけな人間が受け入れるには時間がかかるため、「すごい」「美しい」といった単純な言葉しか浮かんでこないのだ。

しかし、展示ケースの前に5分10分と佇み、展示品をまじまじと眺めていると、そのうち単純な形容詞は浮かんでこなくなる。代わりに、この展示品が作られた由来や関わった人物、事件など、作品の背景を自ら言語化しようと試みるようになる。規模の大きな美術展にいくと音声ガイドの貸し出しがあり、作品の詳細な解説を音声で受け取れるが、あの解説の声が自分の脳内で、自分の声で流れてくる。これは創造的な活動と言えるだろう。

もちろん作品の背景に関する詳しい知識はないので、推測に基づく言葉がほとんどだ。例えば「この書簡を書いた人物は、名宛人とどのような関係にあったのか。〜という言葉から考えるに、身分の低い者が高い者に対して何かを懇願する内容ではないか?」というように。

しかし、たとえ稚拙で陳腐で、過去に誰かが見つけたであろう着想や表現でも、その瞬間に自分の中に湧いてきたのだから、やはりオリジナルだと言っていい。オリジナルの着想や表現であふれている記事の価値は高い。

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ノンバーバルな美術作品や歴史資料から、なんらかの着想を得て言語化を試みるという体験には別の効用がある。自分の中にある言葉のストックがあまりに貧相で愕然とするのだ。すると、「いかん……もっとこのジャンルの知識を深めなければ。家に帰ったらあの本を読もう」などと、学習意欲を強烈に刺激してくれる。怠け癖の激しい私のような人間にはありがたいことだ。

ライターはともすると書いてばかりの日常なので、意識して学習する機会をつくらないとストックが枯渇する。ノンバーバルな芸術作品等をじっくり鑑賞し、自分の言語化スキルがどの程度の水準にあるかを確認できれば、たゆまず学び続けるためのよいモチベーションになるだろう。

取材データとの向き合い方 どう削り、利用し、言い換えるか

気づきの2つ目は、取材データとの向き合い方だ。

今回の取材では、展覧会を企画し、展示品の解説作成等を担当した学芸員さんにマンツーマンで詳細なガイドをしていただいた。予定時間は1時間だったが、大幅にオーバーし2時間超にもなってしまった。学芸員さん自身も、迫り来る予定時間を見失うほど解説に没頭していたのだろう。

言葉巧みに解説する学芸員さんの表情はやや高揚しているように見えた。素人である私に対して、どうにかして展示品の素晴らしさ、面白さを伝えようと力説する姿は、専門家としての自信に満ちていた。

ただ、解説の音声を文字起こししてみるとある問題に気づいた。内容があまりにも専門的であり、しかも分量が膨大なのである。文字起こしした解説を整理構成するだけで、展覧会の図録が1冊できてしまうほどに。

当然、文字起こしのデータをそのまま執筆に利用することはできない。難しい言葉や専門用語を素人の読者でもわかるように言い直すことは必須だ。情報量も最終的には10%以下まで絞り込んだ。学術論文の冒頭には、読者である研究者を対象にアブストラクト(要約)が置かれているが、私が取材で受け取った情報もアブストラクトのレベルまで凝縮し、さらには一般の読者でも理解できるよう翻訳した上で記事の執筆に活用した。

取材対象から得られたデータをどう取り扱うかという悩みは、インタビューや取材記事を書くライターなら誰もが経験していることだろう。取材データのどこを削り、利用し、どの部分を自分の言葉に置き換えるか。その判断にはライターの腕が如実にでてしまう。執筆以上に悩むこと必至だが、それだけにうまく着陸できたときの達成感は最高だ。