五十の手遊び 佐藤拓夫のライター徒然草

2022年5月に50歳になるのを機にエッセイをしたためるブログを始めました。10年続いたら祝杯をあげよう。

あきらめた人、あきらめようとしている人へ送る言葉

司法試験の受験をあきらめた人のブログを読むのがなんとなく好きだ。かつての自分の姿を重ねて読めるということが理由の一つだがそれだけじゃないと思う。文章から滲みでるどこかさっぱりとした諦念がいいのだ。

あきらめの気持ちとどう折り合いをつけるか。精一杯の表現(言い訳)で、自分が選んだ道を振り返り、悔しさをにじませ、悲しみをこらえる。それでも最後には「司法試験をあきらめたのは間違っていなかった」と、前向きな言葉で自分を正当化する。言葉と言葉のあいだに見え隠れする、揺れ動く心の襞。人間がいかに繊細な動物であるかがよくわかる。

このように書くとちょっと皮肉めいてしまうかもしれないが、たとえ中途半端な結果に終わったとしても、人生の限りある時間を投じて司法試験に挑んだ人を私は尊敬する。負け戦だとわかっていても、逃げずに立ち向かった勇気と行動を称賛する。そして、未練を残しつつも受験から撤退したことには、「よくぞ決断されました。いままで頑張りましたね」と声をかけたくなるのだ。

もっとも、だからといって私が自分自身を尊敬し、称賛するかといえばそうも言えないのが正直なところで。もしあきらめずに受験を続けて合格していたら……。父の事務所を継いでいたら……。いったいどんな人生が開かれていただろうか。そんなふうに夢想したことは一度や二度じゃない。

受験をあきらめたことで、ライターという一生の仕事に出会えたし、ライターの仕事でなければ味わえない人生の機微もあった。とはいえ、その方向転換を心から受け入れていたわけではない。弁護士になることは子供の頃からの唯一といっていい夢だったのだから。

小学校の卒業アルバムにも、友達と交わした寄せ書きノートにも、「おとなになったら弁護士になってお父さんの後を継ぐのが夢です」と躊躇せず書き残していた。そんな無垢で純粋な子供の頃の私に向かって、今の私ならなんと声をかけるだろうか。

「君の夢はかなわない。受験勉強は徒労に終わる。できることなら、大学卒業と同時に就職したほうがいい。司法浪人なんてやめておけ。」

「司法試験をやめたあと、君はライターになる。ライターはとっても楽しい仕事だぞ。もし司法試験に合格して弁護士になれたとしても、めちゃくちゃ大変なストレス満載の仕事だってこと、親父の働き方をみていて十分わかっているだろ?」

そんなふうに哀れみの眼差しを向けながら、人生の羅針盤を正しい方角に合わせるようくどくどと諭すのかもしれない。

だが、何かに熱中している人に対して、「その道の先は行き止まりだから戻ってこい」と助言するのは無粋な振る舞いだ。たぶん、ライターを選んだ今の人生を肯定したいから、過去の自分の気の迷いを否定したいだけなのだろう。

司法試験に合格するには、全国の秀才たちと競い合い、針の先ほど狭い門を突破しなければならない。見事ゴールテープを切るためには以下の4つの条件が必要となる(私見)。

  • 合格水準をクリアできるだけの潤沢な知性と無尽蔵の記憶力
  • 長期の受験生活を支える経済力*1
  • 心身の健康を多少害しても構わないという自虐(特に30代以降の受験生の場合)
  • 貴重な青春時代を放棄しても構わないという覚悟(特に20代の受験生の場合)

私の場合、いずれも不足していたのは明白だったが、特に最後の《青春を捨てる覚悟》が著しく弱かった。知人や恋人と遊ぶこと、博打にふけること、旅をすること、(受験とは無関係の)本を読むこと。受験勉強以外の時間を目いっぱい楽しんでいた私の日常に、受験一本に打ち込む人間が身にまとうべき厳粛な空気はまるでなかった。司法試験受験生として、私はとことんアマチュアだったのである。

でも言い訳させてほしい。司法試験は日本最難関と言われる国家資格である。私が受験していた頃や亡父が合格した当時は、今とは比較にならないほど難しかった*2。だから本気を出そうにも、あまりにも難しすぎてやる気をそがれてしまい、受験のプロになれないまま撤退に追い込まれてしまうのである。

論文試験の合格発表当日は、法務省の最寄り駅である霞ヶ関駅のあちこちで、不合格だったとおぼしきベテラン受験生がうつろな表情でベンチにぐったり座り込んでいる姿があった。なかには絶望のすえにホームから身を投げる人もいたので、合格発表当日は自殺防止のため普段よりも多く駅員が配置された。飛び込みの瞬間を目撃したことは幸いなかったが、ふらふらと挙動不審な人を見つけた駅員が二人がかりで声をかけて慰めの言葉をかけている光景には何度も遭遇している。

私もベテラン受験生だったからか、似た者同士の存在は嫌でも視界に飛び込んでくるのだ。負のオーラをたっぷり漂わせながら、合格発表会場や駅のホームの端っこで、力なくぽつねんと佇む姿をいつも自分と重ね合わせていた。もっとも先に述べたように私はアマチュア受験生だったから、不合格でもさほど深刻なダメージは受けなかったことは不幸中の幸い(?)だったのかもしれない。

***

あきらめることでしか、得られないものがある。あきらめたから、出会えた人や仕事があり人生があるはずだ。《あきらめ》という言葉にはネガティブなイメージがある。だが仏道におけるあきらめ=《諦念》とは、道理を悟る心であり、むしろポジティブな言葉だ。受験をあきらめた自らの選択を卑屈にとらえる必要はないのである。

物事はたいてい、始めるときよりもやめるときのほうがエネルギーを要する。司法試験の受験はまさにそうだ。いざ受験をあきらめようとしても、投下してきた膨大なコストを前にすると「ここでやめるのはもったいない……?」とたじろいでしまう。だからあきらめきれずに10年20年とずるずる受験を続けてしまう人が多いのだ。本当に異常な世界である。

今年の司法試験の本番が2週間後に迫った。

受験をあきらめた人へ。たしかにあなたは合格には至らなかった。でも、司法試験という残酷な蟻地獄の巣から見事に這い出して、生き残れたではないか。あきらめたからこそ拾えた命と人生。これから思う存分楽しもうではないか。

受験をあきらめようとしている人へ。どうか無理をなさらずに。撤退したくなったら、潔く決断を。あきらめる自分を責めないでください。あきらめこそが、あなたの人生を開く鍵となるのかもしれないのだから。

 

*1:ここでは詳しく触れないが、司法試験受験生を続けるにはお金がかなりかかる

*2:100人中1〜3人しか合格できない、ほとんど無理ゲーの世界だった