好きなCMがある。1992年放映、サントリー・クレスト12年。バーカウンターに座るショーン・コネリーが、贈られたグラスでウイスキーを静かに口に運ぶ。
このCMが好きな理由は、亡き父の面影である。
父はサントリーのウイスキーをこよなく愛飲していた。ウイスキーをストックする棚にはクレストやオールドが置いてあり、たまに扉を開いては、ナイトキャップとしてごく少量をストレートでなめるように飲んでいた。
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CMの最後に、有名なコピーが流れる。
時は流れない。それは積み重なる。
傑作だと思う。
「時は積み重なる」
と一息でまとめることもできるだろう。
しかしそれでは半端になる。「当たり前だよね?」と突っ込まれるおそれがある。
「時は流れない」のであるなら、ではいったいどうなるのか?
それに続く答えが「それは積み重なる」である。「時は積み重なる」ではない。「それは積み重なる」である。
「それは」としたことで、このコピーを読む人の何割かは「それ、とは?何を指しているの?」と手前のフレーズを必ず読み返すことになる。その往復によって、「時は〜積み重なる」というこのCMの主題が増幅し、サントリークレスト12年という商品の存在感もまた純度を増していくのである。
このコピーを書いた秋山晶は
時は流れない。時は積み重なる。
という候補も当然考えたはずだ。
悩む秋山を前にサントリーの上層部は、「秋山さん、あなたに任せます」と伝えただろう。彼のような超一流のコピーライターを前にして、クライアントがあれこれ指図するのは野暮というものだから。
時は流れない。時は積み重なる。
時は流れない。それは積み重なる。
意味は同じだ。しかし、印象はまるで違う。前者は二つのフレーズが断絶している。後者は強固につながっている。
断絶することで輝く場合もあるが、このコピーに限ってはそれでは駄目なのだ。
12年もののウイスキーのCMコピーなのだから。年老いた名俳優にセリフのない極上の演技をさせるのだから。
長い時間の経過が、「ただ流れ去っていく」かのような空虚さを1ミリでも想像させてしまったら、その瞬間に負けとなる。コピーもCMも駄作となる。
冒頭の「時は」が、最後の「積み重なる」まで一筋につながっていること。それがこの奇跡のCMを成立させるコピーとして絶対の条件だったのである。
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12年ものの原酒が樽のなかで熟成していく歳月と、俳優として深みを増していくコネリーの経歴を重ねた、ただただ美しいコピーと美しい映像。初めて観た二十歳そこそこの私は、この作品の真価がまるでわからなかった。
54歳になったいまではどうだろう?
生きる指針になった、とさえ言えるかもしれない。
だから、ふとしたときに人生の計画について考えを巡らせるときは、
「それは、積み重ねることができるのか?」
と自問自答するようになった。
一発逆転の挑戦。
記念碑的な大仕事。
人生を変える出会い。
そういう単発の事象を私はもう当てにしない。続きのない行動は、所詮思い出にしかならないのだから。原酒の熟成に12年の歳月が要るのなら、私のような凡夫の人生に必要な歳月は12年どころではあるまい。
依頼された原稿を締切までに納める。施設の仕事を淡々とこなす。先祖の墓守を休まず続ける。書き出すのも恥ずかしいほど平凡な反復作業だ。しかし、平凡な積み重ねにこそ人生の味わいがあることを、この年齢になってようやくわかってきたように思う。
寝巻きに着替えた父が、棚の扉を開けてクレストをグラスにほんの少量注ぎ、趣味の書棚を眺めながら、何十分もかけて飲み干していたあの姿。
単にもったいなくてちびちび飲んでいただけなのか、それとも積み重ねた時間を一滴ずつ噛み締めていたのか。
いまとなっては知る由もない。