五十の手遊び 佐藤拓夫のライター徒然草

2022年5月に50歳になるのを機にエッセイをしたためるブログを始めました。10年続いたら祝杯をあげよう。

一度しか着なかったオーダースーツ

蒸し暑くなったので一気に衣替えをしたところ、クローゼットの奥から一着の真新しいスーツがでてきた。

ライターを生業とする私は、一日のほとんどを自宅の書斎で過ごす。だから服装に頓着しない。取材で人に会う時もジャケットとチノパンで乗り切ってきた。スーツを着るのは特別な日だけ……という生活をもう15年以上続けている。

そんな私が2年前の冬に一張羅のスーツを買い求めた。中学の同級生である親友S君の結婚式に出席するためである。

式の招待状を受け取った時、嬉しさと同じくらい不安にかられた。結婚式に着ていけそうな服なんて、やけに肩パッドが大きい地味な礼服しか持っていなかったからだ。しかもその礼服を仕立てた頃と比べると、腹と尻が大幅に巨大化したためズボンのジッパーが上がらないときた。諦めた私は、せっかくスーツを用意するなら長く着られるものをと考え、地元の紳士服店でフルオーダーのスーツを一着つくることにした。

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店に入り、大量の生地が並ぶ商品棚をおもむろに眺めていると、店主が近寄り「まず生地を選ぶように」と声をかけてきた。安い生地と高い生地では価格が天と地ほど違う。当然のように安い生地を選んだ。安いといってもフルオーダーである。仕立て料込みで10万円を下回ることはない。

生地選びの次は採寸である。店主が慣れた手つきで体にメジャーをあて、サイズをメモしていく。腹の周囲を測る時、こっそり息を吸ってサイズダウンを試みるも「はい、一度深呼吸して、ゆっくり息を吐いてください」と諭された。

2か月後、スーツが完成した。体を前後左右に動かしても窮屈な着心地が一切ない。寸分たがわぬ緻密さと適度な余白が共存する職人芸である。試着室の姿見の中には、いつもの見慣れた顔とは別人のキリリとしたおじさんが佇んでいた。

 スーツが完成してから2週間後、東京・丸の内のレストランでS君の結婚式が開かれた。コロナが流行る前だったこともあり、歌あり踊りありの賑やかな挙式である。シングルマザーとして一人息子を育てたお母さんは、涙ひとつ見せずにころころと笑っていた。

結婚式から帰宅した私は、上着を雑に脱ぎ捨てて寝床に倒れ込み、そのまま朝まで意識を失った。翌日、スーツにアイロンをかけ、ポケットに防虫剤を放り込んでハンガーにつるし、クローゼットにしまった。

結婚しそうな友や知人はもういないし、甥や姪も仕事が忙しいらしく浮いた話はまるで聞かない。何よりも2年の歳月を経てさらに巨大化した腹と尻のせいで、もうこのスーツをジャストフィットで着こなすことは望むべくもないだろう。せっかくオーダーしたスーツだが、二度目の出番は当分なさそうだ。