
本日8月15日、栃木県護国神社に参拝した。宇都宮市陽西町、住宅と学校に囲まれた一角である。表参道の木立に入ると、蝉の声が一段大きくなった。
18歳で上京してから54歳の現在に至るまで終戦記念日の参拝を欠かしたことはない。東京で暮らしていたときは靖国に、栃木に戻ってからは護国神社に。御魂の安らかな眠りを祈り、感謝の念をお伝えする日と決めている。
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8月15日は、厳密に言えば戦争が終わった日ではない。降伏文書に調印されたのは9月2日であり、国際法上の終戦はそちらを指す。8月15日は、ポツダム宣言受諾を国民が放送で知らされた日である。
それでも日本人にとって、戦争が終わったのはこの日だというのが一般的な認識だろう。昭和57年の閣議決定によって「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と定められ、以来8月15日の正午には各地で黙祷が捧げられるならわしである。
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護国神社は全国の道府県にある。もとは幕末以降の招魂社で、昭和14年の内務省令によって一斉に「護国神社」と改称された。内務大臣が指定する指定護国神社は原則として一県に一社、当初三十三社、敗戦時には四十六社を数えた。それぞれの土地から出て、それぞれの土地に帰らなかった人を祀る施設である。靖国神社が国単位で担うものを、県単位で受けもつ存在だ。
栃木県護国神社の前身は、明治5年11月に創建された宇都宮招魂社である。最初に祀られたのは、戊辰の役に殉じた旧宇都宮藩主・戸田忠恕と藩士ら九十七柱。以後、西南戦争、日清、日露と祭神が積み重なり、現在は栃木県関係の戦没者五万五千三百六十一柱を祀る。
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祀られているのは軍人だけではない。戦場の病院や病院船で亡くなった従軍看護婦、勤労動員中に死んだ学徒、女子挺身隊員も含まれる。靖国神社では女性の祭神が五万七千余柱にのぼり、最初に合祀された女性は戊辰戦争で死んだ女軍夫だという。広島護国神社は、原爆で亡くなった動員学徒・女子挺身隊ら約一万柱を祭神に数えている。
栃木県護国神社が公表している由緒に性別の内訳はないが、県内の戦没者に女性が含まれていないと考える理由もないだろう。
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念のため書いておくが、私は戦争を賛美するために参拝したのではない。
神社側は祭神を「英霊」と呼ぶ。その呼称には、死を意味づけ、価値づける響きがある。
しかし私はその言葉を自分の口では使わない(仕事で書いた文章で一度だけ「英霊」という言葉を使ったことはあるが、本意ではない)。
戦没者の死に意味があったことは事実だろう。しかしそれは、「意味があったのだから仕方がなかった」という言い訳に転化しがちだ。「英霊」という言葉は、それを気やすく口にする者に、戦争を無自覚に美化させるパワーを有している。危ない言霊である。
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戦争は起こしてはならない。あの戦争は間違っていた。論じるまでもないことだ。
しかしそのことと、あの戦争で死んだ人に手を合わせることは何ら矛盾しない。むしろ矛盾させてしまうと、追悼の場は必ず、追悼以外の何かに使われるリスクが出てくる。
広島や長崎の被爆者追悼式典で、無礼極まる騒ぎを繰り返す輩が例年あとをたたないが、あの連中もなにがしかの思惑のために戦没者の御魂を利用・借用しているのである。
ただ静かに祈りをささげ、手を合わせ、頭を垂れる。こんな簡単な作法になぜ抗うのか。
鎮魂の気持ちには右も左もない。それを知って騒ぎを起こすような連中はもはや「人の形をした獣」であるから、万死に値する。天網恢恢疎にして漏らさずである。ろくな死に方をしないだろう。
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靖国神社や護国神社に祀られているのは「戦果」ではない。「兵器」でも「作戦」でもない。人間一人ひとりの名前である。
田畑を耕していた人、店を継ぐはずだった人、子が生まれたばかりだった人。徴集され、動員され、遠い異国の地で果て、多くは骨も戻らなかった無名の人たちである。
自ら望んだ死に方をした者は、おそらくほとんどいない。
「天皇陛下万歳!」
そう叫びながら果てたからとって、真に心からよろこんで天皇陛下のために死んだわけではないのである(そういう思想のもと散華した人がいることは知っているが、それを一般化することはできない)。
彼ら彼女らの慟哭の上に、今を生きる私の8月がある。
冷房の効いた部屋で原稿を書き、締切に苛立ち、夕方には何を食べるかを考える。取るに足りない一日だが、世界を見渡せば、取るに足りない一日を送れることのほうが例外であり、特別だろう。
夕刻となりすでに人影のたえた護国の境内で、賽銭を入れ、いつものように二礼二拍手一礼をした。
ほかの社に参るときは、ここで
「祓えたまい、清めたまえ、神ながら守りたまい、幸えたまえ」
と略拝詞を唱えるのだが、靖国や護国の森ではそのようなことはしない。
「ありがとうございました。やすらかにおねむりください」
と伝えるだけだ。
参拝を終えて、砂利を踏みしめながら帰途につく道すがらも、晩夏の蝉はやかましく鳴いていた。まもなく秋である。