五十の手遊び 佐藤拓夫のライター徒然草

2022年5月に50歳になるのを機にエッセイをしたためるブログを始めました。10年続いたら祝杯をあげよう。

やまゆり園事件から10年。「社会は良くなっていない」という言葉

 

2016年7月26日、神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」に元職員の男が侵入し、入所者19人を殺害した。職員を含む26人が重軽傷を負った。

もう10年である。

新聞記事には、犠牲者の名前が刻まれた献花台に、一人につき一本ずつヒマワリを供える男性の写真が掲載されていた。

福祉関係の仕事をしているというその男性は、こう話している。

「この10年、社会は良くなっていないですよね」

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事件が起きた当時のことを思い返してみる。

なんと凄惨な事件なのだろう。犯人の主張する、重い障害のある人間は社会に必要ないという考え方に強い嫌悪感を覚えた。

 

しかし正直にいえば、それは「テレビや新聞の向こう側で起きた事件」だった。

優生思想、障害者差別、命の尊厳。

そうした言葉を使って事件について考えてはいても、私の理解はかなり観念的なものだったと思う。

 

それから10年が過ぎ、私はいま、宇都宮市内の特別養護老人ホームで働いている。

高齢者施設と障害者施設では制度も役割も異なる。両者を同じものとして語ることはできない。

それでも、施設で暮らす人を「支援される人」としてだけ見る危うさについては、少しずつ実感できるようになった。

 

機嫌の良い日もあれば、何を話しかけても返事をしてくれない日もある。何度説明しても同じことを尋ねる人がいる。家に帰りたいと繰り返す人もいる。食事を拒む人、職員に腹を立てる人、冗談をいって笑わせてくれる人もいる。

施設の外から眺めれば、同じような高齢者が静かに暮らしているように見えるかもしれない。

しかし、中に入れば当然ながら、一人ひとりがまるで違う。

それぞれに名前があり、性格があり、家族があり、積み重ねてきた時間がある。

そんな当たり前のことを、私はこの半年余り、毎日の仕事を通じて遅まきながら教えられている。

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くだんの記事の見出しには、「優しく寄り添う社会を」という言葉が使われていた。

福祉の世界において、「寄り添う」ほど便利な言葉はない。

利用者に寄り添う。家族に寄り添う。地域に寄り添う。

困ったときにこの言葉を置いておけば、とりあえず文章全体がやさしそうに見える。何をどうするのかが書かれていなくても、なんとなく立派な理念を掲げた気分にもなれる。

 

しかし、本当に人に寄り添う作業は、そんなに美しくも効率的でもない。

同じ話を繰り返し聞く。相手の言葉が出てくるまで待つ。こちらの都合で急がせない。腹を立てられても、人格まで否定されたと思い込まない。相手ができないことだけでなく、できることを探す。人手も時間も足りないなかで、それを毎日続けなければならない。

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やまゆり園事件の犯人は、障害のある人の命を、「社会にとって役に立つか、負担になるか」という物差しで選別しようとした。

それは極端で異常な考え方である。

だからこそ私たちは、犯人を異常な一人の人間として切り離し、事件を特殊な犯罪として片づけたくなる。

 

しかし、事件から10年を迎えて発表された障害者団体の声明は、この事件を「特異な人物による特異な事件」として矮小化し、忘れ去ろうとする社会のあり方に危機感を示している。

人間を生産性や効率で評価する言葉は、事件後も社会から消えていない。コストパフォーマンス、タイムパフォーマンス、自己責任、社会保障費の削減。

「役に立つかどうか」で人間の価値を測り始めれば、その物差しはいつか必ず自分自身にも向けられる。

 

病気になったとき。

働けなくなったとき。

認知症になったとき。

誰かの手を借りなければ、食事も排泄も移動もできなくなったとき。

 

その段階になって初めて、「役に立たない人間(=自分)にも生きる価値がある!」と主張しても、少々虫が良すぎるというものだろう。

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事件から10年を前に開かれた追悼式では、津久井やまゆり園の園長が、どれほど重い障害があっても、一人ひとりに感情と意思があり、心が生きていると述べた。

神奈川県知事も、10年たって時代が変わったといえる自信はないと話している。

「社会は良くなっていない」

献花に訪れた男性の言葉を、簡単に否定することはできない。

 

それでも、犠牲になった一人ひとりの名前を見つめ、一本ずつヒマワリを供える人がいる。

事件を忘れまいと集まる人がいる。

施設のなかでは今日も、誰かが誰かの口にスプーンで食事を流し入れ、車いすを押し、汚れたおむつをかえている。

 

社会が良くなったかどうかを、大きな言葉だけで判定することは難しい。

ただ少なくとも、人の命を役に立つかどうかで選別しないこと。

目の前にいる人を、ひとまとめの「障害者」や「高齢者」としてではなく、一人の人間として扱うこと。

そのくらいなら、たぶん、ずぼらな私でもできる。

 

優しく寄り添う社会とは、誰も反対できない美しい標語を掲げることではない。

面倒で、非効率で、報われないことも多い小さな仕事を、途中で放り出さずに繰り返す社会のことなのだと思う。

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