
先月、54歳になった。職場で誰かに祝われたわけでもなく、家族からも軽く声をかけられただけで、誕生日らしい儀式はなかった。50を過ぎたあたりから、年齢の節目に意味を見出す癖は自然と薄れた。
ただその晩、ふと、西村賢太のことが頭をよぎった。
私小説家の西村賢太は、2022年に54歳で死んだ。2月のある夜、東京・赤羽で乗ったタクシーの車中で意識を失い、運ばれた病院で翌朝6時すぎに息を引き取った。死因は心疾患。妻も子もなく、親や姉とも絶縁状態だった西村は、誰にも看取られることなく生を全うした。これから毎年、西村の享年より一歳ずつ齢を重ねることになる。同世代の人間が自分よりも先に逝くことが、少しずつ私の日常になりつつある。
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昔から西村の作品を耽読していたわけではない。芥川賞受賞作『苦役列車』を読んだのは受賞報道のずっとあとだった。文体の硬質さと自分自身に向ける筆の容赦のなさに少々たじろぎつつ、その古風でもったいぶった独特の言い回しっぷりに触れ、「久しぶりに骨のある物書きが出てきたな!」と激しく興奮した。
中卒で日雇い仕事を転々としながら筆を執り、藤澤清造という忘れられた私小説家を生涯敬い続け、月命日には石川まで墓参を欠かさず、菩提寺に頼み込んで藤澤の墓の隣に自分の墓まで建てていた酔狂な輩であることも、西村の特異さを際立たせた。
荒れ果て、落ちぶれる様をありのまま私小説に託し続けた西村は、はたして己の死の準備を、多忙を極めた売れっ子作家生活のなかで粛々と整えていたのだろうか。
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なぜこんなことを今になって書こうと考えたかといえば、「生き切る、死に切る」という言葉に接したからである。
この強い言葉の出処は、私の恩師である髙久多樂さんの著書『STAND ALONE』である。
同書は、元バドワイザー・ジャパン会長だった故・近藤隆雄氏を主題にした一冊である。近藤氏の生き様とともに、氏が主宰していた「サムライ塾」の塾生たちが、「お前はなにものか」という厳しい問いと対峙し、自分の命と人生をいかに生き切り、いかに死に切るかの決意を表明する場面が描かれている。
私はライターとして独立する前、髙久さんの営む株式会社コンパス・ポイントで編集の仕事を手伝っていた。原稿の組み立て、取材の段取り、人の言葉や人生を文章に置き換える作法を一から学んだ。今曲がりなりにもフリーランスのライターとして机に向かっていられるのは、コンパス・ポイントでの日々が礎になっているからだ。
しかし、高久さんは来るもの拒まず去るもの追わずという中庸の人である。そのせいか、コンパス・ポイントの職場にはとてもゆるやかな空気が流れていた。著書やブログのなかでは曖昧な言葉を許さない高久さんであるが、仕事のやり方についてはスタッフ各人の裁量を尊重してくれていた。
もちろん裁量には一定の責任が伴うことは言うまでもない。自由な働きぶりの結果としてだるい仕事をしようものならはっきり叱責されたし、私も凹むことがたびたびあった。
とはいえ、サムライ塾に集まる人々が全身全霊で繰り出す決意表明や自問自答を重ねる濃密な時間に比べれば、コンパス・ポイントという会社は本当に居心地の良い職場だったと思う(いま振り返れば、である。当時はそんな余裕はなかった)。
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『STAND ALONE』を初めて読んだとき、そこに書かれているサムライ塾の塾生たちの決意表明「全機現」を、私はどこか他人事として受け取っていたと思うし、それは今も同じだ。「これが達成できるなら死んでもいい」と言い切れる確固たる目的や目標とはこれまで縁がなかったからだ。
「自分だけの一生涯の目標を、人生の核となるゴールを見定めて、『絶対やり切ります!』と人前で宣言するのはとても素晴らしいことだと思う。でも、今の俺には無理かな。」
そんなふうに少し距離を感じてしまった。私のような凡夫には、サムライ塾のような厳しい自己研鑽の学びの場は、どこか白昼夢のような、リアリティの希薄な世界に思えたのだ。
亡き父の法律事務所では、父の全面的な指導のもと、パラリーガルとしての補助業務に打ち込めた。父の庇護のもと、何不自由なく法律業務に邁進できた時間だった。コンパス・ポイントでは、先にあげたように髙久さんのチェックは必要最小限であり、つきっきりで指導するスパルタとは無縁だった。ライターとして独立してからは、己の信条や仕事の哲学は傍において、クライアントの依頼に応じて黙々と取材し、原稿を書く日々である。クライアントワークとは、要するに先方の要求に沿った成果物を納品すれば良いのであるから、こういっては何であるが気楽な仕事である。
総じて、54歳になった私の半生を振り返ると、「決意表明」や「人生の目標」や「自分はなにものか?」などという大それた自覚はまるでなかった。私はただただぼんやりと馬齢を重ねてきたおっさんである。
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宇都宮の特別養護老人ホームで働き始めて丸5ヶ月が過ぎた。ここでは90代前後の入居者さんが、ゆるやかな速度で日々を重ね、人生の終幕を迎えようとしている。「生き切る、死に切る」というサムライ塾テイストな厳しい決意の言葉は、施設のなかでゆったり余生を送る入居者さんの暮らしとはあまりにも異質である。
特養で長く暮らしている方々は、際立った夢も大義もないままに、毎朝決まった時間に起き、決まった順序で食事を口に運び、昼寝をし、新聞を読んだりテレビをみたり、世間話や昔話を楽しみ、あいまに施設が提供するレクリエーションやイベントに参加したり、怪我や体調悪化で救急搬送されたり、急に不安に襲われ家に帰らせてくれと荒れたりする。その全てがありふれた日常であり、その単純な反復活動のさきに確実な死が待っている。
誰に見せるためでもないなんでもない所作の一つひとつが、生をまだ手放していない人間のリアルな手つき、顔つきをしているのだ。
これもまた紛れもなくひとつの「生き切り」のかたちだろう。平凡で波風の立たない普通の暮らしの中にも、れっきとした「生き切る人生、死に切る命」があるということだ。
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54歳の冬の夜、タクシーの後部座席で意識を失い、そのまま戻らなかった西村賢太は、作家としてはこれからというときに鬼籍に入ることとなった。若かりし頃に多くの不遇を経験していた西村が芥川賞作家となり世間に広く認知されたのは2011年のこと。アルバイトの肉体労働から解放され、作家として生計を立てていたのはたかだか10年である。
本人としては
「予定よりだいぶ早く逝っちまったなあ」
と、いろいろ思うところがあったのではないだろうか。
しかし、それでも、彼は彼なりに「死に切った」のだろうと私には見える。日頃から藤澤の墓を詣でるだけでなく、その隣に家族でもないのに自分の墓まで先に建てるような男である。死を漠然とした不安としてではなく、暮らしの中の一部としてはっきり意識していたに違いあるまい。書くべきものを書き、整えるべきものを整え、しかし、少しだけお迎えが早かっただけの話である。
サムライ塾の塾生における決意としての生き切り、特養の入居者さんにおける習慣としての生き切り、西村賢太における私小説家としての生き切り。
形はまるで違うが、突き詰めれば同じ線上にあるように見えなくもない。天から与えられた生の日々から逃げずに正面から引き受け続ける、その姿勢をたえず保っていれば、やがてくる死の瞬間も生と一筋に連なるのであり、それこそが生き切る、死に切るということなのではないか。「生き切る」と「死に切る」は断絶しているのではなく、常に渾然一体である。
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西村賢太が絶命した54歳になった私だが、呑気なものでいまだに生き切っている実感も、死に切る自信もまるでない。サムライ塾の塾生たちのような必死の決意表明などしたことはむろんないし、かといって日々接している特養の入居者さんたちのように生きているだけで深々と年輪を刻んでいるわけでもない。一介のライターであり、兼業で福祉施設の広報兼何でも屋として口に糊をする労働者であり、社会によき影響を与える事業を起こせるだけの起業家精神も甲斐性も胆力もない。クライアントからの原稿は締切ギリギリにやっとこさ納め、自分の墓のことなど一度たりとも真剣に考えたことはない(これでも一応嫡男であるから、先祖の墓守は休まず続けているが)。
私は西村賢太にはなれないし、サムライ塾の塾生にもなれない。なる必要もない。
私は私のやり方で、「生き切る、死に切る」とは何なのかを、あまり深刻にならず、カジュアルに考えていこうと思う。