東京で暮らしていたころに2度(95年、99年)都知事選に投票したのだが、その後は故郷の栃木に戻り、テレビやネットでお祭り騒ぎを外から眺めていた。
今回の都知事選をみていて、「祭りだな」とあらためて思った。
記憶の整理をかねて、都知事選にまつわる断章を書き残しておきたい。
地方の知事選候補者は「3人まで」が相場
日本の首都のトップを決めるのだから当然ではあるが、栃木県知事選挙とはなにもかもが違う。一番の違いは候補者だ。
栃木県知事選の候補者は、取るに足らない泡沫候補をのぞけば「2人または3人」と相場が決まっている*1。
1人目は、現職の知事だ。現職が出馬しない場合は、指名された後継者が立候補し、現職の組織票を丸ごと引き継ぐことが多い。
2人目は、対抗馬だ。現職が保守系なら革新系の候補者が名乗りをあげる。これは反対も然りで、必ずといっていいほど思想的な対立軸が現れるのが地方の知事選の特徴である。
なお、政治思想として保守や革新をうたっていても、選挙戦ではあえて党派を隠し無所属で立候補することもよくある。
そして3人目は、共産党が擁立する候補者だ。共産系の候補者は独特の立ち位置を占めており、現職だけでなく対抗馬に対しても批判的な「第3の候補者」として出馬する。共産党が革新系の候補者を支援する場合、候補者は2人に落ち着く。
ただし、候補者が3人の選挙でも、共産系候補が当落線上にくることはまずないので、毎回現職と対抗馬の一騎打ちというシンプルな構図になる*2。
このように、保守・革新・共産という3つの党派から候補者を出し、2人ないし3人で選挙戦を争うのが栃木県知事選挙の特徴だ。
無所属が強い都知事選
都知事選は少し様相が違う。現職VS新人の構図は同じだが、現職が退く場合、「保守VS革新」の対立から距離を置いた無所属新人が当選するケースがかなりある。
たとえば95年選挙で当選した青島幸男氏や、99年選挙で当選した石原慎太郎氏は、いずれも無所属で出馬している。小池百合子現知事も、自民と野党がそれぞれ擁立した候補者を出し抜いて当選したことは記憶に新しい。
「いろいろな保守系候補者」も特徴
都知事選の場合、ひとくちに保守系候補といっても、単に政権与党が支援するだけの候補者から、「日本(人)最優先、外国人排除」を前面に押し出す癖の強い候補者まで、グラデーションの幅がかなりある。
もともとは無所属で出馬・当選した小池百合子氏も、今回の選挙では自民党の支援をもらっているので、系列としては保守に分類できるだろう。強い保守思想をアピールする候補者としては、今回であれば田母神俊雄氏や桜井誠氏がいる。
こういった「いろいろな保守系」の存在は、地方の知事選ではまず見られない傾向だ。東京都の行政規模はちょっとした国家サイズであるからか、国政に打って出るだけの基盤は持っていないがどうにかして自分の保守思想を実現させたいと考える候補者にとって、都知事選は「自己実現」の舞台にうってつけなのだろう。
「2ちゃんねる」と「選挙特番」で情報を得ていた時代
ネットを使った選挙活動が解禁されたのが2013年のこと。それまではネット上で都知事選の情報交換や意見表明が個人間で行われることはほぼなかった。
ただ、「2ちゃんねる」は治外法権のような場として機能していた。ネット選挙が非合法だった時代において、一言申したい有権者たちの逃げ場だった。
2ちゃんねる以外で都知事選の情報を得る手段としては、キー局が放送する選挙特番も貴重だった。
都知事選は規模も影響力も大きいせいか、それ自体がひとつのイベントとしてテレビのコンテンツたりうる。キー局の特番で主な候補者を集め、一問一答形式の質疑応答をする番組はとても人気があった。私たち選挙民にとっては、ネット以外で候補者の人となりや思想が推し量れる数少ない機会であった。
ネットのはざまに潜む有象無象の泡沫候補たち
「泡沫候補」が多数立候補するのも都知事選ならではだろう。
独特の主義主張を展開する色物系(今回の都知事選は色物系候補の見本市だった)。政治はまったくの素人だが金だけはある経営者系(医者や弁護士の候補者が典型だ)。知名度も存在感もまともな政策もゼロで、選挙活動といえばポスターを貼ることだけという不思議系(学校の生徒会レベルかと錯覚するような「ど素人」も散見する)。
いずれも供託金300万円は没収されることを覚悟しつつ、顔と名と主張を都民にアピールできればそれで良しとする平和でおめでたい人々だ。
こういった泡沫候補の政策がメディアで詳しく紹介されることはない。ポストに投函される選挙公報以外で情報を得ようとする場合、インターネットで自ら検索することになる。つまり泡沫候補は、ネットが使えない人にとっては存在しないに等しい。
SNSがないから目に見える分断もない
私が投票した都知事選は1995年と1999年に行われた。95年といえば、マイクロソフトが一般家庭向けのOSであるWindows 95を発売した年で、インターネットが国内に普及し始めた頃だ。ツイッター(現エックス)もユーチューブも存在しないから、メディアが取り上げない候補者の主張を詳しく知りたければ、街頭演説を直接聴きに出かけるしかなかった。
もっとも、今のように街頭演説の日時・場所がネットでアナウンスされる時代でもなかったので、結句、知名度の低い候補者の情報は「2ちゃんねる」のような電子掲示板に流れる断片的なコメントから推測するしかなかったのである。
また、SNSが存在しないから、候補者をめぐって罵詈雑言がタイムラインに飛び交うことはないし、右と左にわかれて分断にいそしむ工作員も存在しない。
その意味では、ひとくちにインターネット時代といっても、SNSが普及する前後では選挙をめぐる空気がまるで違っていたと言えるだろう。私がネットで都知事選の選挙情報を得ていた90年代は、ハイになった素人が攻撃的な言論をばらまくようなことも少なく、とても牧歌的な時代だった。
情報は十分にある
今は選挙のあらゆる情報がネットで手に入る。たとえば今回の都知事選の場合、こちらのページで全候補者の基本的な情報を紹介していた。こういった選挙情報専門サイトは、私が都知事選に投票した時代にはむろん無かったので隔世の感がある。
またネット選挙解禁以降は、フェイスブックやエックスのタイムラインで候補者情報が誰でも簡単に得られるようになった。街頭演説や選挙特番を直接タイムリーにみなくても、後追いで選挙情報サイトやSNSを拾っていけば、候補者に関する情報はほとんど全部入手できる。つまり、「判断材料がないので誰に投票したらいいか、わからない」というもっともらしい言い訳はできない時代になったということだ。
大人になりきれない人が4割もいた
私が選挙権を得た90年代以降で、今回ほど盛り上がった都知事選は記憶にない。しかし、投票率は60%にとどまった。
自分の投票所はたいてい自宅近くにある。候補者の公示から投票日前日まで期日前投票だってできる。候補者の情報はネットですぐに入手できる。それなのに今回、およそ400万人もの有権者が選挙権を放棄したという。
政治に意見しなくても別に構わない。選挙に行かない人は「税金が高い!」などと文句を言ってはいけないとも思わない。
しかし、日本社会を構成する「大人」として、かなり重要なピースが欠落しているのではと蔑視されても仕方ないだろう*3。
「食べていくのに精一杯で、選挙のことなんて考える余裕はない」
「選挙よりも、自分の人生をどうするかが重要だ!投票なんかしたって私の人生はなにも変わらない」
そういうやむを得ない心情や意見があることは理解できる。理解はできるが、同情はできない。
「そうだよねえ、まずは自分のことでいっぱいいっぱいだもんね。選挙なんてアホらしくて行ってらんないよな!」などとニヒルな愚痴を言って傷を舐めあう「冷めた大人」にはなりたくないからだ。
この秋、栃木県知事と宇都宮市長のダブル選挙がある。社会を構成する大人として、子供達から後ろ指をさされないよう、必ず私も一票を投じる。祭りを心から楽しめる大人であり続けるために。