五十の手遊び 佐藤拓夫のライター徒然草

2022年5月に50歳になるのを機にエッセイをしたためるブログを始めました。10年続いたら祝杯をあげよう。

翻訳されない無数の文章への憧れを捨てきれない

ボブ・グリーンというコラムニストがいる。コラム好きの人にとっては「何をいまさら……」と言いたくなるだろう。世界一のコラムニストだと評する人も少なくない。私もそのひとりだ。

ボブ・グリーンのコラム集はほとんど持っているが、なかでも井上一馬さんが和訳している初期の作品集、『チーズバーガーズ』や『アメリカンビート』などは一読をおすすめする。カラリと乾いた文体に惚れる人は多いと思う。

ボブ・グリーンだけでなく、海外の作家が書いた文章は翻訳本で読むことにしている。これは私の語学レベルが理由ではない(語学力が低いのは事実だが)。たとえ語学堪能だったとしても、海外の本は必ず日本語に翻訳されたものを読むと決めているのだ。なぜかというと、原作の味わいに加えて、翻訳者の日本語のスキルをも楽しめる点で一挙両得だからである。

原著の言葉が母国語なら文体の微妙な癖をストレートに受け止めることができる。しかし母国語でない場合、どんなにその言語の理解に優れていても、ネイティブのような感覚的な読み方は難しい。したがって母国語に翻訳されたものを読むことは理にかなっていると言えるだろう。

ただし、名訳と呼ばれる翻訳文の味わいは、ネイティブなだけでは十分に楽しめない。名訳を名訳たらしめるのは、読み手の文章読解能力だからだ。読み手の読解力が低いと、せっかくの名訳の価値も半減する。これは言い換えると、海外の翻訳モノを読む習慣を身につけておけば、常に自分の日本語能力のレベルを確認できるということだ。

何も「日本語スキルのブラッシュアップをする道具として海外の本を読もう」と言いたいわけではない。

動機はもっとシンプルだ。海外の作家が書く本や文章には、まだまだ底の知れない唸るような名文が山ほど隠れているのである。

しかし悲しいことに、その多くは翻訳されることなく埋もれていく。優れた翻訳者の数が足りていないからだ。文学作品の翻訳とは名人芸であり、機械で翻訳するのとはわけが違う。名訳が生まれるためには、長い経験を持つ翻訳者の存在が欠かせないのだ。

いまこの瞬間も生まれ続けている海外の名著名文のほとんどを、私は読めないまま生涯を終えることになる。本好きにとってこれ以上の不条理はない。

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ボブ・グリーンにはまったのは大学1年の夏休み。アメリカかぶれの友人から『チーズバーガーズ』の単行本を借りたのがきっかけだった。それまでは日本の小説やエッセイしか読んでこなかった。好んで手にしていたのは、谷崎潤一郎や開高健のようなウェットで狂気のほとばしる作家ばかり。癖の強い純文学にただれていた私にとって、ボブ・グリーンの古き良きアメリカの精神がにじみでたドライな表現は衝撃だった。その波紋は今も途切れることはない。

日本で文章を書く仕事をしていると、日本のメディアが世に出す本や記事にばかりアンテナを張ってしまいがちだ。陳腐なセリフであるが、世界は広い。見果てぬ無数の傑作たちへの憧憬は、たぶん死ぬまで消えないだろう。

「仕事なんか放っておいて、もっとたくさん海外の本を読みたい……」という渇望。「外国の本なんか読む暇があるなら、もっと日本語の文章を書いて日銭をたくさん稼げ!」という焦燥。

相矛盾する感情を天秤にかけながら、またひとつ夜がふけていく。